魏の初代皇帝・曹丕。彼は曹操の跡を継いで皇帝の位に就任することになりますが、曹植と激しい後継者争いに勝利し、曹操の跡を継ぐことになります。
曹丕は曹操の跡を継ぐと自分の後継者争いのライバルであった曹植へ七歩の間に詩を作れとかなり難しい要求を突きつけています。どうして曹丕はこのような要求を曹植へしたのでしょうか。
「曹丕 七歩詩」
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曹操の後継者へ
曹丕は曹操の三男として誕生しますが、曹操からあまり可愛がられなかったようです。ですが、曹操の息子であったことから、副丞相の位を授けられることになります。
曹操は三男の曹丕ではなく誰を可愛がっていたのでしょうか。それは彼の弟で文才の才能に秀でた曹植を可愛がっていました。曹操は副丞相の位を曹丕へ与えても、曹植が可愛かったため、自分の跡継ぎを決めませんでした。
そのため曹丕の側近と曹植の側近は自分たちの君主を曹操の後継者とするべく、熾烈な後継者争いが勃発。曹操の後継者争いは曹植が酒で失敗を重ねた事が契機となり、曹丕が曹操の後継者に任命された事で、終結を迎えることになります。
こうして曹丕は曹操が亡くなると彼の跡を継いで、魏王の位へ就任することになります。
七歩の内に詩を作れ!!
曹丕は側近であった司馬懿・陳羣・朱鑠・呉質の四友や自分を支持してくれた人々へ褒美を与えて、報いることにします。ですが、ライバルであった曹植に対しては厳しい態度で臨みます。
曹植は兄・曹丕の無理難題を受けても驚くことなく、七歩の内に見事な詩を「豆の詩」作り上げ、披露します。曹丕は曹植が作り上げた「豆の歌」を聞いて深く恥じ入って、彼を殺害するのを止めることにします。
こうして曹植は自らの文才によって自分の命を救うことに成功するのでした。ついでにこの「豆の歌」は「世説新語」と呼ばれる書物に記載されています。
国替え国替えの連続
曹植は曹丕から領地と侯の位を与えられますが、一つの領地に留まれず、転々と移封されることになります。曹植の処遇は彼が亡くなるまで継続して行われることになります。
何度も上奏するが取り上げられない
曹植は曹丕が君主として君臨していた時代、自分の能力を国政に参与する事で試したいと考え、曹丕へ何度も上奏して自分を用いてほしいと懇願します。ですが、曹丕は曹植の上奏を取り上げず、曹植を用いることをしませんでした。
曹植は一度の上奏で諦めず何度も曹丕へ上奏をしますが、結局取り上げられませんでした。曹植は曹丕の死後、魏の二代目皇帝・曹叡から召集を受けて参内する機会を得ます。
曹植は曹叡と一対一で時勢や国政に関する議論をしたいと熱望。だが曹植の熱望は曹叡に届かず、一対一で国政を議論することができず、領地へ帰国することになります。曹植は自分の熱望が曹叡に届かなかった事でショックを受けてしまい、病にかかってしまいます。その後曹植は病をいやすことが敵わず、亡くなってしまうのでした。享年41歳。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は曹植の七歩の詩と彼のその後を紹介しました。曹植が作った七歩の詩ですが、彼の真作ではないとの説が多数を占めているそうです。そのため本当に曹植が曹丕から命令を受けて「七歩の内に詩を作れ」と命令を受けたのかどうか分かりません。
レンの勝手な憶測としては曹丕が自分の母親である卞氏が生きている間に曹植へ「七歩の内に詩を作らなければ、死刑にするぞ」などと無理難題を吹っ掛けるような事をしないのではないかと思います。ですが、あくまで憶測で証左もない為、断定的な事が言えませんが、皆様は曹丕が弟にそこまで厳しい要求をすると思いますか。
■参考文献 三国志武将辞典 新紀元社など
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