2019年10月22日、天皇陛下の即位に伴う即位礼正殿の儀に合わせて恩赦が実施されます。
皇室の慶弔に伴う恩赦は1993年の天皇皇后両陛下のご結婚以来で26年ぶりですが、そもそも恩赦って具体的にどんなものでしょうか?
そして、三国志の天才軍師諸葛亮が恩赦が嫌いだった事実も紹介します。
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恩赦の内容と問題点
恩赦とは刑事裁判の内容や効力を消滅したり軽減したりする行為で漢の時代の中国の記録にも出てきます。
元々は君主の慈悲で犯罪者の罪を減じたり釈放したりするものでした。
恩赦には、いくつか種類があり、有罪判決を無効にする大赦刑罰を軽くする減刑、過去に受けた有罪判決で制限された資格を回復する復権があります。
今回の恩赦の対象は55万人ですが、昭和天皇が崩御した1989年の大喪の礼では、1017万人が恩赦され1990年の上皇陛下の即位礼正殿の儀の時には
250万人規模で実施されました。
ただ、この恩赦、三権分立の観点から問題があります。
恩赦は皇室の慶弔を契機に行われるのですが、その対象範囲は内閣が決めるもので国会は関与できません。
これは、司法の判断を行政の権限で変更してしまう事であり、三権分立の観点から問題があります。
また、1990年の上皇陛下の即位礼正殿の儀の時の恩赦は、救済対象1277件の4分の3近くが選挙違反で
このような汚職を大赦で救うのに批判が殺到した事もあります。
それに犯罪被害者にとっては、加害者が恩赦という司法と関係ない力により罪を軽減されるので複雑で納得できない感情を持つ事にもなります。
どうも目出度さを隠れ蓑に、内閣による恣意的な対象範囲が決められている感じがしてkawausoは恩赦に好感を持てません。
諸葛亮は恩赦が嫌いだった
さて、漢の時代の中国でも恩赦は乱発され気味でした。
恩赦は、天子が人民に示す恩恵の一つですし、お金が出るわけでもないので人気取りに使われました。
しかし、恩赦は皇帝が崩御したり、即位したりの時に一番大きいので人民は、早く皇帝が死んだり即位したりするのを願うようになり、
元々の恩恵からかけ離れた存在になります。
三国志正史、諸葛亮伝に引く郭沖の五事には、蜀の統治を巡り諸葛亮と法正が議論をしていた事を伝える部分があります。
ここでは法正が諸葛亮の政治は厳しすぎるとして、漢の高祖が咸陽に入った時に複雑な法を簡単にし咸陽の民を徳の力で感化したのに習い、
益州でも法を緩めるべきだと主張します。
法正と言うと、恩には恩、恨みには恨みで報いる人物なので、もっと民衆に厳しいかと思えば、そうではないんですね。
すると諸葛亮は真っ向反論
君は一を知って二を知らない咸陽の民は長年秦の厳しい法に痛めつけられていたので、
高祖は法を三章にまとめて簡単にして徳政を敷き民を安心させたのだ。
だが益州は事情が違う、劉焉・劉璋の時代には、頻繁に恩赦が出されたので、民衆は支配者を侮り法は行われず、
ひたすらに混乱と無秩序が社会を覆っているのだ。
このような場合には、恩徳ではなく厳しい法により人心を引き締めて秩序を維持するのが大事だ。
こうして孔明は、ただ甘い顔をすれば民衆はつけあがり、秩序は乱れるとして法正の主張を退けたのです。
【北伐の真実に迫る】
諸葛亮曰く劉備も恩赦を嫌っていた
夷陵の敗戦で劉備が心身を病み、白帝城で崩御すると諸葛亮は劉禅を補佐して実権を握ります。
劉禅の即位の時には、前例に倣い大赦が行われていますが、どうも範囲が狭かったようです。
そこで、伝統的な寛治を重視する群臣から丞相は恩赦を惜しんでいるという批判が出ます。
これに対し、諸葛亮は崩御した劉備の言葉を盾に反論を封じました。
先帝は仰った、「我、陳紀、鄭玄から政治の道を教わるも、未だかつて恩赦を語らず」と
劉表や劉焉・劉璋父子の政治を見よ、毎年のように恩赦を出しながら現実の政治に益した事が無かった。
政治は大徳を以てし、小恵を以てせずとは、まさにこのような事を言うのだ。
劉備は世慣れた人で、社会の下層である侠の世界にいただけありやはり性善説に立たず、
民を無垢な存在とは見ていなかったんだろうと推測します。
実際に劉備が劉禅に残した遺言には、礼記ばかりではなく、六韜、法家の商君書、申子、韓非子なども広く学ぶように言っています。
宮廷でちやほやされて育った劉禅に「性善説だけではいかんよ、人間は両面みよ」と言いたかったのでしょう。
こうして死んだ劉備の言葉を使って群臣を沈黙させた諸葛亮ですが、人に厳しく自分に甘い事はなく街亭を失陥させた馬謖にも、
恩赦をかけずに処刑して自分の意見を徹底させました。
三国志ライターkawausoの独り言
諸葛亮は法家主義者として捉えられていますが、渡邊義浩氏によると、実際の孔明は儒者でありその政治スタンスは春秋左氏伝にあると言います。
それは、孔子の言葉として知られる一文でした。
仲尼曰く善きかな、政寛なれば則ち民慢。慢なれば則ち之を糾すに猛を以てす。
猛なれば則ち民殘。殘なれば則ち之に施すに寛を以てす。
寛以て猛を済ひ、猛以て寛を済はば、政是を以て和す
この意味は、恩徳を施し続けると民はそれに慣れて傲慢になる、そうなれば法を厳しくする。
厳しい政治が続けば、民は惨めな気持ちになり気力を失う、その時は再び恩徳を施して法律を緩くする、寛と猛を相互に使う事で
政治はバランスよく安定するというのです。
民を治めるにはアメとムチを使い分けろという事ですね。
参考文献:死して後已む 諸葛亮の漢代的精神
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