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明智光秀の兵力はどれくらい?鉄の家臣団も紹介

2019年11月3日


 

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明智光秀 麒麟がくる

 

2020年のNHK大河ドラマは明智光秀(あけちみつひで)を主人公にした麒麟(きりん)がくるです。これまで、戦国時代の映画やドラマには何度も登場した明智光秀ですが、

その率いていた兵力や家臣団となると、あまり知らない人が多いかも知れません。今回はマイナーな光秀の家臣団とその組織を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信長にDVされても守りぬいた二人の家臣

キレる織田信長

 

明智光秀は、優秀な家臣を持つ事を何より大事にしていました。

例えば、光秀の重臣として知名度が高い、斎藤利三(さいとうとしみつ)は元々西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)の家臣でしたが、1570年に喧嘩(けんか)別れして縁戚を頼って光秀の家臣になりました。さらに1582年、光秀は利三を通じて、稲葉一鉄の家臣の那波道治(ななみみちはる)を引き抜きます。しかし、これに対し稲葉一鉄が激怒して信長に訴えました。信長は斎藤攻めで一鉄に助力してもらった恩義がある事から那波と利三を返すように光秀に命じますが、これを光秀が拒否しました。

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

「例え三十万石頂いても栄耀(えいよう)とは思いませぬ、良き家臣を迎えるのは、善き働きをするためであり、ひいては上様の為にもなります」

 

光秀の反論に怒った信長は光秀の髻を捕まえて壁にぶつけ折檻(せっかん)しますがどうあっても光秀は流血しながら自説を曲げませんでした。怒った信長は利三には切腹を命じ、那波は稲葉家に帰るように命じますが、この命令は実行される事はありませんでした。

明智光秀が本能寺の変が起こし信長が討たれてしまったからです。

ここまで光秀に(かば)ってもらった斎藤利三は、当初は本能寺の変に反対しますが光秀の決意が固いとみると恩義を返す為に積極的に働き戦死したのです。

もう一方の那波道治ですが、こちらの事績は全く分かりません。

 

美濃出身者で固めた地元意識

 

明智光秀の家臣団は、明智秀満(あけちひでみつ)、斎藤利三のように美濃出身者が中核でありそこに、室町幕府に仕えた旧臣、さらに光秀が支配した山城、近江、丹波の国衆が参加しています。光秀は有能な部下には恩賞を惜しまず、稲葉一鉄の家臣から引き抜いた斎藤利三には自身の石高が30万石の頃に1万石を与えて丹波黒井城主にしています。

 

また、斎藤利三と並ぶ二大重臣である明智秀満は、元々は三宅弥平次(みやけやへいじ)と言い出自については確定的な事は言えない程諸説ありますが、光秀は坂本城築城を任せるなど厚遇しさらに自分の娘を与えて姻戚にし、明智の名字を与えたそうです。後年には福知山城の城代も任せていて、ほぼ身内でした。

燃える本能寺

 

本能寺の変の時に、明智光秀は、明智秀満、明智次右衛門(あけちじうえもん)(光忠)、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝(みぞおしげとも)のような五宿老(ごしゅくろう)にのみ織田信長を討つと打ち明けます。あまりの事に4人は押し黙り斎藤利三は反対までしますが、秀満は「もはや思い止まる必要はありません」と激励し残りの4人もこれで賛成に転じたと言われています。そして、こちらの五宿老は斎藤利三を除き、光秀が瓦礫沈淪(がれきちんりん)の無名時代から仕えた人々です。

織田信長

 

織田信長が能力があれば縁もゆかりもない人間でもヘッドハンティングして活用したのと違い、光秀は地元意識に(こだわ)った様子が分かります。

もっとも、一部将に過ぎない光秀と違い、全国支配を意識した信長は身内だけで統治をする事に無理があり、リスク込みで余所者を使う必要があった事も事実ですが・・・

 

麒麟がくる

 

外様でも命を懸けた光秀の魅力

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

明智光秀は地元意識で重臣を固めたと言うと、身内ばかり優遇して他国人には排他的(はいたてき)に見えますがそうではありません。

例えば伊勢貞興は、元々足利義昭に仕えた名門伊勢氏の俊才でしたが、義昭没落後には、光秀に仕え山崎の合戦では殿(しんがり)を務め21歳で戦死しました。

三国志のモブ 反乱

 

他にも浅井長政(あざいながまさ)に仕えていた阿閉貞征(あつじさだゆき)は信長に降った後で光秀の家臣になり丹波の国人、四王天政孝(しおうてんまさたか)も明智光秀の配下として奮戦し山崎の合戦で討ち死にしています。仕えて僅か数年で、戦死まで付き合うというのは、主君を変えるのが当たり前の戦国時代では(まれ)な忠義であり、部下を大事にした光秀の人望の厚さが見えます。

 

明智光秀の兵力はどの程度?

鉄砲隊を率いる今川義元

 

では、明智光秀の自前の兵力はどの程度だったのでしょうか?

光秀の領地は近江坂本5万石と丹波一国29万石で合計34万石くらいだそうです。先に、稲葉一鉄の家臣の那波道治を引き抜いて信長に返せと折檻(せっかん)された時「例え三十万石を与えられても返さない」と啖呵たんか)を切っているので光秀の石高は34万石と考えて間違いないかと思います。

嫉妬している明智光秀

 

実際の合戦では、この自前の兵力の下に与力として、組下大名の細川忠興(ほそかわただおき)筒井順慶(つついじゅんけい)島左近(しまさこん)三好康長(みよしやすなが)一色義有(いっしきよしあり)などがいますが、

これらの人々は身分上の上下関係にはなく、信長の下では同僚ですからもちろん謀反の時に味方になる保証がありません。そこで自前の兵力ですが、明智光秀は家中軍法を制定していて、この中で百石につき6人の兵士を出すように義務付けをしています。これが正しいならば、20400人が光秀の自前の兵力になります。

 

 

実際には百石に6人はかなり高負担なのですが、光秀が抑えた近江は商業が盛んな場所なので、石高以上に上る商業利益もあったのでしょう。

本能寺の変の時に光秀が動員した兵力は13000人だそうですが、2万人や3万人の異説もあるようです。しかし、本能寺に逗留している信長の供回りは100名余りであり光秀はその100倍以上の兵力を有していました。

信長を討った後は大変ですが、信長を討つ事自体は楽ゲーでした。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

明智光秀が動員できた兵力と、その家臣団について解説しました。

逆臣のイメージと違い光秀が部下思いであり、その人望で仕えてから年数が浅い部下まで、命を捨てる働きをしていたのが分かります。

五宿老に関しては、一人も光秀を裏切っていないので、いかに光秀が部下に慕われた人物であったのかが分かりますね。

 

参考文献:歴史旅人 明智光秀 歴史から消された生涯の謎を徹底解明

 

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