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これがお金の本質?劉巴が鋳造した直百五銖銭がズル過ぎる

2019年11月11日


 

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三国志で貨幣鋳造(かへいちゅうぞう)と言えば、粗悪な五銖銭を作り出してハイパーインフレを産んだ董卓(とうたく)のケースなど、ろくな事がないように思えます。

 

薄い五銖銭を作らせる董卓

 

ところが、唯一貨幣鋳造で成功しているケースが何と蜀で発生していました。これを主導したのが直百五銖銭(ちょくひゃくごしゅせん)を鋳造した劉巴(りゅうは)という人物ですが、その流通方法がかなりズル過ぎるのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備の大盤振る舞いで蜀漢の国庫はカラに

劉備

 

 

劉備の蜀攻略は、長期に渡ったので劉備軍の将兵には不満が溜まっていました。このままでは士気が低下して、戦争にも差し支えると考えた劉備は、成都陥落の暁には、国庫に入っている財貨は全て兵に与えると宣言します。

 

兵士 朝まで三国志

 

果たして、成都が陥落すると兵士は国庫に雪崩れ込んでいき、穀物と絹織物以外の金銀、銅銭は全て持ち去られてしまいます。

 

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

どうして、金銀以外に銅銭が持ちされたのか?これは当時の軍功褒賞制度が軍功に対して一般的に銅銭で支払いが為されていたからです。同時に、当時の蜀の民間市場では銅銭すなわち五銖銭が幅広く流通していました。ところが劉備政権には、一銭の五銖銭もありません。

宋銭 お金と紙幣

 

毎月、給料を支払わないといけない将卒にも、与えるものはありませんでした。諸葛亮(しょかつりょう)にもいい知恵はなく困るばかりの時に、やってきたのが劉巴です。「私に一石二鳥の方法があります」そうして、劉巴が言い出したのが直百五銖銭の鋳造だったのです。

 

新解釈・三國志

 

 

ほとんどズルだがちゃんと流通、直百五銖銭とは

 

銅銭を放出したので、新しく直百五銖銭を製造するというのは、一見すると、至極もっともな提案に見えます。でも、劉巴の提案は、全然もっともな提案ではないのです。

 

それというのも、この直百五銖銭、大きさも重さも従来の五銖銭と変わりません。ところが、その価値は五銖銭の百倍もありました。現代に例えれば、旧来の百円に対し重さも成分もほぼ同じなのに一万円の価値がある新百円が発行されるようなものです。

 

洛陽城

 

劉備は劉巴の提言に飛びつき、宮殿の帳の銅の金具まで剥がして、鋳潰して直百五銖銭を鋳造し五銖銭と同時流通させて、市場から軍需物資を買い集めたので、国庫はあっという間に一杯になってしまったそうです。

 

三国志とお金の話

 

 

こんなふざけた貨幣がまともに流通した理由

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

しかし、常識的に考えると実質五銖銭一枚の価値しかない直百五銖銭がどうして、まともに流通したのでしょうか?

 

仮にkawausoが古い五銖銭を持っていたら、こっそりと鋳潰して偽物の直百五銖銭を鋳造すると思います。だって、たったそれだけで貨幣の価値が百倍になるんですからね。あっという間に大金持ちです。

 

 

もちろん、劉巴は庶民がそういう悪知恵を発揮するだろうと知っていて、最初から対策を練っていました。それは、取引の場所を市場に限定し、他での取引を許さない事や、取引を役人に監視させ、直百五銭の受け取り拒否を認めない事、物価の安定に努める事等でした。

 

蜀の劉備

 

つまり、劉備支配下の蜀では、どこでも取引が出来たわけではなく政府が造った城壁に囲まれた市場で役人の厳しい監視を受けながらかつ、商人は客が直百五銖銭を持って来ても、これは受け取れないとは言えないように指導されていたのです。

 

張飛と劉備

 

このような貨幣は名目貨幣と言われ、その貨幣の金属価値ではなく政府がつけた価値に従い流通していきます。もちろん、名目貨幣を流通させるには、劉備政権の軍事力の強大さが必要でした。

 

韓信と劉邦

 

「お(かみ)が百っつーたら、一銭も百銭なんじゃい、分かったかゴルァ!」

 

こうして、武力をチラつかせて、商人や旧来の五銖銭を持つ人にインフレ分を泣き寝入りしてもらって経済を動かしたのです。そう言えば、諸葛亮は劉璋の政治は法が弛緩(しかん)していて威令が行き届かないと法律を厳しくしていましたが、この方針は劉巴のズル過ぎる直百五銖銭と連動しているような気もしてきました。

 

三国志と異民族

 

 

どうして、益州の豪族は直百五銖銭に反発しないのか?

楊儀、姜維、費イ

 

この直百五銖銭に劉備が荊州から連れて来た部下たちは反対しませんでした。当たり前で、彼らこそが国庫から財物を持ち去った張本人だからです。一方で益州豪族ですが、彼らは土地を持っていて、そこから揚がる農産物を既得権益としていました。なので、蜀漢政権の発行した直百五銖銭の影響はあまりありません。

 

五虎大将軍の趙雲

 

また、劉備は趙雲(ちょううん)の提案に従い、益州の豪族の土地や家屋を返還し荊州から引き連れて来た部下に対して、益州で土地を得て地主になる事を禁止していました。

 

こうして、益州豪族は今まで通りに荘園地主(しょうえんりょうしゅ)として利益が得られ荊州から入った劉備の配下は劉備の下で手柄を立てて軍功褒賞(ぐんこうほうしょう)で生活を立てる事になり、()み分けが実現されたのです。かくして一番損をしたのは庶民で、直百五銖銭の影響で物価が上がり持っていた五銖銭の価値は相対的に下落し、苦しい生活を強いられる事になるのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

 

こうしてみると、あくどさ満載の劉備政権ですが、kawausoは蜀の民はそれほど不幸では無かったと思います。当時の庶民が一番恐れるのは、無秩序や戦乱であり他所から来た連中が武力を背景に全ての財産を強奪し、おまけに自分達まで殺されたり奴隷にされる事でした。高い税率で、厳しい法律に服従させられた蜀の人民ですが四十年近い蜀政権の統治中は戦乱とは無縁でした。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

そりゃあ、日頃の不満や愚痴はあったでしょうが、本当に過酷な政治なら他所(よそ)に逃げていたと思います。一般庶民に取って蜀は地上のパラダイスではなかったでしょうが、死んだ方がマシと思えるような地獄でもなかったのです。

 

参考:劉備と諸葛亮カネ勘定の「三国志」/152p~160p/文春新書/ 柿沼陽平/2018年5月20日一版/

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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