建安5年(200年)に呉(222年~280年)の孫策は曹操と袁紹が戦っている間に、都である許昌を襲撃する計画を立てました。
しかし、孫策は刺客の手にかかったので計画は頓挫となります。計画の全貌は残念ながら分かっていません。
実はあまり知られていないのですが、曹操は孫策の死を口実に呉に報復を仕掛けようとしていたのです。だが、そこへ1人のヒーローが現れました。
彼は何者でしょうか?それでは解説をしていきます。
「孫策 許都」
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孫策の許昌襲撃計画とその死
建安5年(200年)2月に曹操は袁紹軍と白馬で戦闘を開始します。孫策は曹操が袁紹に釘付けになっている間に、許昌を襲撃、献帝を迎え入れて自分のものにしようとします。そこで兵士や将軍たちを調練していました。
ところが孫策は狩猟の最中に護衛もつけずに、単独で行動をとっていました。一国の主としてはやってはいけないことです。そこを暗殺者により一斉に襲撃を受けます。彼らは孫策が呉を統一する時に討ち取った、呉郡太守の許貢の息子や食客でした。
孫策はそこで落命することはありませんでしたが、傷は思った以上に深く、間もなくこの世を去りました。享年26歳。不用意な行動をとったのは彼自身でしたが、非常に可哀そうな最期です。
正史『三国志』によると、曹操と袁紹が官渡で対陣している最中に孫策の訃報が届くことになっています。2人が対陣したのは8月以降です。しかし、虞喜という人が執筆した『志林』という書物によると、孫策が亡くなったのは4月4日と記されています。
おそらく、曹操のもとに情報が届くのが遅かったのでしょう。昔はインターネットが無く、馬や人の足で知らせる時代でしたから・・・・・・
呉への出陣計画と現れた救世主
一方、曹操は孫策が死んで19歳の孫権が即位したと聞くと、呉の混乱に付け込んで攻め込もうと企みます。想像の域に過ぎないですけど、孫策の許昌襲撃計画はこの時点でもれていたのでしょうね。するとそこへある人物がストップをかけました。
誰が言ったのかというと、それは張紘でした。張紘は建安4年(199年)に、孫策の命令で許昌に使者として赴きます。彼は以前から朝廷では名が知られていたので、そのまま許昌に引き留められて宮仕えするように言われます。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『呉書』という史料によると、張紘は孫策に対しての恩義を忘れておらず、呉に帰りたいと思っており任官は固辞していました。
そんな最中に孫策の訃報が届き、曹操は呉に攻めることを計画します。張紘は曹操に対して、「他人の死に乗ずるのは古い掟に外れるだけではなく、失敗したときは恨みを買って友好関係も破綻させてしまいます」と説得しました。
言われてみればその通りと思った曹操は、呉への出兵を中止。曹操はその後、張紘に対して孫権を説得して降伏させるように頼みます。命令を受けた張紘は呉に戻りましたが、もちろん曹操との約束を守ることはありません。そのまま呉に帰って孫権に仕えました。張紘は曹操よりも恩義ある呉の方を優先しました。
三国志ライター 晃の独り言 赤壁の戦いしなくて済んだのに・・・・・・
以上が孫策の許昌襲撃計画の失敗と報復を防いだ張紘についての話でした。今回の記事を執筆していて筆者は、曹操にがっかりしました。せっかく孫策が死んで攻め込めるチャンスだったのに、「友好関係が破綻する」と説得されただけで無かったことにする。
おそらく袁紹と対陣中で忙しく、深く考える余裕が無かったと思います。だけど、ここで別動隊を送り込んで呉を併呑すればよかったと思います。そうすれば後年の赤壁の敗戦も無く、天下統一が簡単に出来たのではないでしょうか?
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