太平道の創始者・于吉の死の謎に迫る!謎は全て解けた?

2019年12月3日


 

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太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

太平道(たいへいどう)は後漢(25年~220年)末期に民間に流行した道教の一派であり、中平元年(184年)に起きた黄巾の乱の母体となった教団でもあります。

 

張角逝く

 

教団の中心部は黄巾の乱終了で消滅しますが、残党は20年以上に渡り暴れ回り各地の群雄を苦しめました。

 

于吉

 

さて、この太平道を創始した人物は張角(ちょうかく)と思われがちですが、実は違っており于吉(うきつ)と言われています。そこで今回は太平道の創始者の于吉とその死に関して解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳します

 

自称・皇帝
当記事は、
「太平道 創始」
「太平道 于吉」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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太平道の創始者は于吉

于吉と張角

 

確認がとれる限り太平道の創始者は于吉と言われています。彼は琅邪の人であり先祖以来、東方(東海沿岸の海岸地帯か?)に仮住まいしていたようです。別荘でも持っていたのかもしれませんね。

 

于吉は呉郡と会稽を往来して、お札と神水を使って人々の病気治療を行っていました。医者というよりも占い師か心理カウンセラーです。于吉は『太平清領書』という書物を執筆します。後漢第8代皇帝順帝の時代に于吉の弟子と言われる宮崇が『太平清領書』を朝廷に献上しました。

 

しかし朝廷は中身が怪しい内容のものなので丁重にお断りして返却します。現在の日本で例えるなら、『太平清領書』は「有害指定図書」です。

 

その後、第11代皇帝桓帝の時も孫弟子(?)の襄階が朝廷にもう1度『太平清領書』を献上します。けれども、1度押された烙印は取り消すなんて不可能です。やっぱり却下でした。

 

ちなみに、黄巾の乱の指導者である張角と于吉の関係は不明です。孫弟子なのか、張角が于吉のマネをして作った教団なのか現在も分かっていません。

 



孫策に殺害される于吉

于吉、孫策

 

于吉は黄巾の乱鎮圧後も普通に存命しています。彼が官憲の目をどうやってかいくぐったのかは不明です。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

ところが于吉にも最期が訪れます。建安5年(200年)に孫策(そんさく)曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)と戦っている間に、がら空きになっている許昌(きょしょう)を襲撃しようと計画しました。ある日、孫策は武将や賓客を集めて会議をしていました。ちょうどそこへ于吉が通ったのです。みんな于吉を見た途端、頭をペコリと下げます。

 

キレる孫策

 

孫策は見ていても面白くありません。領主は自分なのに、なんでみんなヨボヨボの爺さんに頭を下げるのか意味が分からないのです。結局、孫策は民を妖言で誘惑したということで于吉を捕縛。死罪を言い渡します。部下は「それだけは許してください!」と言いますが、孫策は聞く耳を持ちません。

 

「その昔、南陽の張津は漢王朝の法律をないがしろにして、赤い頭巾をかぶって変な書物を読んだりしていた。ところが、異民族に攻められるとすぐに殺されてしまった。お前たちに間違った道を踏ませないために私は、こいつを殺すのだ」と言った孫策は于吉を処刑しました。

 

于吉、孫策

 

小説『三国志演義』では捕縛された後に部下からの助命嘆願を受けた孫策が、雨ごいの要請をします。于吉は約束通り雨を降らせますが、孫策は難癖を付けて于吉を処刑。その後、于吉の霊に呪い殺される最期になっています。

 

実は于吉殺しはウソだった!?

裴松之(歴史作家)

 

上記の話は正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)が持ってきた『江表伝』という史料に掲載されています。『江表伝』の評価について裴松之は「ほぼ筋道が立っている」と原則プラス評価です。ただし、時々マイナス評価をする時もあります。この于吉の話に関しては、「虚妄」と評価しています。

 

その理由は虞喜という人が執筆した『志林』に面白い考察があるからです。虞喜は于吉の弟子の宮崇が後漢第8代皇帝順帝在位期間(126年~144年)に『太平清領書』を朝廷に献上してことに注目します。

 

『太平清領書』がいつ献上されたのかは不明ですが、その頃の于吉は最低20歳と推測します。そうなると孫策に殺された建安5年(200年)時点で于吉の年齢は76~94歳ぐらいです。虞喜は100歳に近かったと言っています。

 

ここまで聞けば「それがどうかしたのでしょうか?」と言いたくなるかもしれません。ここから先が問題でした。古代中国には高齢者と幼児には刑罰を加えず、高齢者に対しては敬意を表するという考えがあったのです。

 

孫策の部下が于吉を尊敬していたのは小説『三国志演義』のように信仰心が厚かったのではなく、現在の日本でも見かける高齢者を敬う接し方と一緒だったのです。虞喜はさらに孫策が于吉を殺す時に例え話に出した張津についても調べていました。そこで驚きの事実が判明します。

 

なんと張津は孫策没後も存命していたのです。これは裴松之も調べており、建安6年(201年)まで生存していたことを明らかにしています。以上のことから、孫策が于吉を殺すことは自分の評判を地に落とすことになるので、まずありえない、つまり虚偽の内容だったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言 三国小学校現る!?

三国志ライター 晃

 

以上が于吉の死の真相でした。さて、先日ネットサーフィンをしていたら、「三国小学校」というのが出てきました。どうやら福岡県小郡市にあるようです。「スゲー!」と思って検索したら、読み方が「サンゴク」ではなく「ミクニ」でした。 一瞬でもだまされた筆者が恥ずかしかったですね。

 

歴史教育にでも力を入れているのかな、と思って調べてみたらさすがに無かったですね。よく考えたら小学校だから当たり前でしたね。

 

ちなみに筆者が本格的に歴史に興味を持ち始めたのは小学校3年生の時からです。最初は日本史にだけ興味を持っていたのですけど、中国人の名前が2、3文字であることに気付いて「こっちの方が覚えやすい!」と思って転向しました。思い返せばスゴイ単純な思考回路ですね(笑)

 

参考文献

・満田剛「虞溥『江表伝』について」(『創価大学人文論集』30 2018年)

 

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太平道の秘密

 

 

 

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