武田信玄の西上作戦はないない尽くしの超ボンビー遠征だった

2019年12月27日


 

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真田丸 武田信玄

 

元亀(げんき)三年(1572年)十月、武田信玄(たけだしんげん)は将軍足利義昭(あしかがよしあき)の要請に応じて、反織田包囲網に参加します。西上作戦(さいじょうさくせん)と呼ばれたこの戦いは武田信玄が血気に(はや)徳川家康(とくがわいえやす)を撃破、信長を追い詰めたものの最期は信玄の病死で幕を閉じたドラマチックな戦いとして描かれます。

しかし、この西上作戦、経済面からみると武田軍はお金も弾薬も不足し、小さな城さえ簡単に落とせない超ボンビー遠征だったようなのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西上作戦は経済封鎖打開のヤケクソだった?

織田信長

 

武田信玄がボンビー遠征の末に病気で死んだのが西上作戦の真実というとにわかに信じられませんが、それは、それなりの根拠に基づいています。信玄の根拠地である甲斐は石高二十二万石で、土地は山がちで耕作地も少なく、暴れ川が二本も走り、しかも内陸である為に、必要な物資を得るのに一苦労する土地でした。

鉄甲船

 

当時の東国は開発が全体的に遅れていて、必要な物資は西国、それも(さかい)大津(おおつ)草津(あしず)のような港から運ばれていましたが、その主要ポイントを押さえていたのが信長です。当時東国への海上輸送は、太平洋側が伊勢と堺、日本海側が琵琶湖(びわこ)を北上して、大津、草津でしたが、信長は、そのいずれの地域も抑えていました。

兵糧を運ぶ兵士

 

その状況で、武田信玄が軍需物資を得るのは相当な苦労がありました。特に信長との関係が悪くなると、西国からの物資は荷止めされてしまい、信玄は欲しくても買えないという状況に陥ってしまいます。そのまま経済封鎖が続けば、戦う前に自滅してしまうでしょう。信玄は座して死を待つより、死中に活を求めた可能性があります。

 



進軍当初から資金不足だった武田軍

餓えた農民(水滸伝)

 

しかし、信玄の西上作戦はその段階でも、すでに遅かったようです。

武田信玄は、戦国最強と恐れられた武田軍団を維持する為に領国内で増税を繰り返しており、国内は非常に疲弊(ひへい)していました。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には、信玄が西上作戦の軍資金の為に、未亡人や妻帯(さいたい)する僧侶にまでダメ押しで税金を掛けて銭をかき集めたものの、全体では銭二万一千貫(七千両)の軍資金しか集まらなかった事を記録しています。この二万一千貫という金額、信長が堺の豪商に課した矢銭(やせん)(軍資金)二万貫とほぼ同額、さらに信長は同様の矢銭を畿内の各都市に要求しているので、軽く十万貫は集める事が出来たようです。これだけ見ても、織田と武田の経済力の差は歴然と開いていました。

 

武田信玄

 

途中まで快進撃だった信玄の西上作戦

武田信玄

 

西上作戦に軍資金が集まらず、さらには、経済封鎖で鉄砲の調達や、当時輸入に頼っていた火薬の原料硝石(しょうせき)の供給に支障をきたした武田軍は死中に活を求めて信長との同盟を破棄して西に向かって進撃します。信玄は信長の同盟者である徳川勢を分断するために、諏訪(すわ)から伊奈郡を経て遠江(とうとうみ)に向かい、そこから軍を二分、山県昌景(やまがたまさかげ)秋山虎繁(あきやまとらしげ)の支隊が三河に向かい、信玄の本隊は馬場信春(ばばのぶはる)青崩峠(あおくずれとうげ)から遠江に入ります。

武田騎馬軍団 馬場信春

 

信玄軍は快進撃を続け、天方城、一宮城、飯田城、格和(かくわ)城、向笠城(むかさじょう)のような徳川方の諸城を一日で陥落させます。山県昌景軍も柿本城、井平城(いひらじょう)を難なく落とし秋山虎繁は東美濃の要衝岩村城を落として後、信玄本隊と合流しました。危機感を持った徳川家康は、遠江一言坂で信玄と交戦しますが多勢に無勢で敗北、浜松城に逃げ込んでしまいます。

 

二俣城攻略で弾薬不足が露呈

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

ここまで物資不足の様子は微塵(みじん)もない武田軍ですが二俣城(ふたまたじょう)攻略に入ると、雲行きがおかしくなります。城兵1200名の二俣城攻略に二カ月もかかったのです。通常、城攻めには守備兵力の10倍の兵力が必要とされていますが、武田の西上軍は3万とも言われ、これらの小城なら余裕で落とせるはずです。ところが、10月16日から始まった二俣城攻略は、12月19日まで2カ月も掛かっています。

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

従来二俣城は、攻め口が北東の急坂の大手口しかなく、その為に武田軍は苦戦したとありますが、僅か1200名が籠るだけの城にどうしてこんなに掛かるのでしょうか?そうでなくても、信玄の西上作戦は、西で信長と戦う足利義昭、浅井、朝倉に呼応して、東から織田軍を挟撃するのが作戦の肝であり、時間が掛かれば掛かるだけ不利です。

 

力任せに押しつぶせばいいのに、信玄は結局、二俣城の水を絶って城主、中根正照(なかねまさてる)を降伏させています。これは、弾薬が少なく力攻めが出来なかったからではないでしょうか?そもそも、当初の快進撃についても、大抵の城は小城であり多くの豪族は戦わずに信玄に降伏したり、逃げてしまったりで城攻めにはなっていないようです。ところが二俣城は家康の援軍を宛てにして頑強に抵抗したので、弾薬不足の武田方の弱点が露呈したのです。

 

信玄は浜松城陥落を諦めて迂回した

徳川家康をボコボコにする武田信玄

 

二俣城が落ちた事を知った家康は浜松城に籠城します。ところが信玄は浜松城を攻める素振りを見せながら、結局迂回して籠城戦を回避してしまうのです。これについても、信玄は西上作戦を急いだとか、家康の存在を歯牙(しが)にも掛けなかったとか、敢えて浜松城を無視して家康を挑発し野戦に持ち込んだ等の説があります。

 

しかし、直前の1200名が籠城する二俣城でさえ、二カ月も掛かった火力不足の武田軍です。最初から浜松城は落とせないと諦め、先を急いだと考える事も出来ます。ここにも軍資金不足、弾薬不足の武田軍の事情が窺えるのです。

 

家康は勝てると思って三方ヶ原の戦いに挑んだ

武田信玄と徳川家康

 

さて、信玄に無視された家康は家臣の諫言を押し切って出陣し、三方ヶ原で信玄と交戦し、大敗を喫して浜松城に逃げ戻るという失態を侵します。

これは、信長から3000の援軍を得た家康が、自分を無視する信玄の態度に我慢がならずに暴発したと説明されがちですが、よく考えてみると家康は、その前に一言坂で信玄に敗北し辛くも浜松城に逃げ戻っています。

それがあったのに負けると分っていて挑んだとすると、家康は後世の評価に似合わないボンクラ武将と言われても仕方ありません。

 

もっとシンプルに考えてみると、家康は決して逆上していたのではなく、二俣城の攻防での武田軍の火力不足を見て取り、「今なら勝てる」と冷静に判断して攻め込んだのではないのでしょうか?ところが、野戦では老獪な信玄に家康は翻弄され大敗してしまったのです。

そして、信玄は家康を撃破しながら、これはチャンスと浜松城を攻めていません。背後を脅かされるリスクを放置してまで先を急いだ理由は、野戦で家康を撃退するのは可能でも、城攻めでは火力不足が露呈する事を悟ったからではないでしょうか?

 

守備兵500名の野田城を落とすのに1カ月

三国志のモブ 反乱

 

三方ヶ原で勝利した後、武田信玄は遠江浜名湖(とうとうみはまなこ)北岸の刑部(ぎょうぶ)村に滞在して越年、半月後の元亀四年1月10日に同地を出発し宇利峠(うりとうげ)から三河に侵入し、豊川を渡河して野田城を包囲します。この野田城は川岸段丘を利用した堅城でしたが、守備兵は僅かに500名で、30000人を擁する武田軍なら一瞬で落とせそうでした。

幕末 魏呉蜀 書物

 

実際に三河物語にも「(やぶ)の内に小城あり」と言われるような小さな城だったようです。ところが、この有利な状況にも関わらず武田信玄は力攻めをせず、わざわざ甲斐から金山衆(かなやましゅう)を呼び寄せて地下道を掘り、水を絶ち切る方法を取ります。野田城の戦いは、1月10日以降に始まり、2月16日に城主の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が城兵の助命を条件に降伏しました。

武田信玄死去

 

野田城は二俣城よりもずっと小さい城であり守備兵も500人しかなく、三方ヶ原で敗れた徳川家康の後詰も期待できない状態でした。にも関わらず武田軍は、その攻略に1カ月も費やしています。実はこの頃、信玄の病状はかなり悪化しており、その事が進軍に影響を与えたと言われてきましたが、しかし進軍なら兎も角、城を落とすのは信玄の指揮でなくても、名だたる名将が揃っているのですから、出来そうなものです。

間もなく信玄は病没し、武田軍は上洛を諦めて甲斐に帰還するのですが、信玄が死ぬ前から物資不足は深刻であり、それが進軍を鈍らせて、織田包囲網を失敗させたのではないかと思います。


※武田信玄行軍ルート

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

これは信玄没後の長篠の戦いの前ですが、武田方の武将である穴山梅雪(あなやまばいせつ)が配下の商人に対し、敵方の手下のふりをしてでも敵の商人と取引せよ、うまく鉄や鉄砲を購入できれば、馬は二百でも、三百でも用意する。と命じていますし、年代は不詳ながら信玄も、富士御室(ふじおむろ)の神主に粗悪な銭があったら鉄砲の玉にするから収めよと命じています。

やはり、武田軍は城攻めに必要な弾薬や鉄砲が絶望的に不足したまま、西上作戦を取らずを得なくなり敗北を喫したのだと思います。追い詰められていたのはどちらかと言えば、武田信玄の方だったのです。

 

参考文献:桶狭間は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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