これぞ猿真似?秀吉は光秀の戦い方をパクっていた

2019年12月29日


 

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豊臣秀吉 戦国時代2

 

応仁(おうにん)の乱以来、1世紀以上も分裂していた戦国時代を終わらせた天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし)。人たらしと言われた人心掌握術(じんしんしょうあくじゅつ)と大掛かりで独創的な戦い方で戦国随一の戦上手として知られた秀吉ですが、こと戦い方においては出世競争でリードしていた明智光秀(あけちみつひで)のやり方を堂々とパクっていました。これぞ猿真似(さるまね)!秀吉がパクった光秀の戦い方を見てみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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有名な鳥取城の渇え殺しは光秀の丹波攻めのパクリ

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

天正九年(1581年)6月、羽柴秀吉(はしばひでよし)吉川経家(きっかわつねいえ)が籠城する鳥取城を包囲しました。しかし、鳥取城は山の上に築かれた防御力の高い城であり、普通に攻めては秀吉の軍勢にも大ダメージがでる恐れがありました。

そこで、秀吉は一計を案じ、若狭商人(わかさしょうにん)に命じて相場より高く米を買い占めさせました。高騰に釣られて鳥取城では、争って米を売却したので、3カ月の蓄えだった備蓄米が1カ月分まで激減します。さらに秀吉は周辺の村々から2000名の農民を追い立て鳥取城に避難させます。これにより1200名だった鳥取城の人員は3200名に増えて、増々食糧が乏しくなりました。

餓えた農民(水滸伝)

 

こうした上で、秀吉は鳥取城の周囲に陣城(付城)を築き、その周辺に堀や土塁や柵を巡らし兵士を巡回させて、補給を絶ちます。包囲網は十キロ以上に及んだそうです。この完璧な包囲により、3カ月目には守備兵に餓死者が出現、空腹に耐えかねて人肉喰いをする人間まで出始め、4カ月目には城主の吉川経家が自分の命と引き換えに城内の人員の助命を願い出て落城しました。

凄惨(せいさん)な鳥取城の(かつ)え殺しですが、これとほとんど同じ戦い方を1579年6月に丹波八上城(やがみじょう)を落とした明智光秀も行っているのです。

 

明智光秀が実行した八上城の渇え殺し

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

1577年、明智光秀は石山本願寺との戦いや、雑賀(さいが)攻め、謀反(むほん)した松永久秀(まつながひさひで)を攻めた信貴山城(しぎさんじょう)の戦いなどに従軍しつつも、10月に丹波亀山城を落として拠点にし1578年の4月に八上城を包囲しました。丹波は山がちの地形で攻めにくく守りやすい土地であり、光秀は以前、丹波黒井(くろい)城を攻めていて、味方と思っていた波多野秀治(はたのひではる)が裏切り、あわや討ち死にという大敗北を喫していました。

三国志のモブ 反乱

 

そこで、光秀が採用したのは徹底した兵糧攻めでした、その様子は信長公記(しんちょうこうき)によると以下の通りです。

 

堀をほり、塀・柵幾重(いくえ)にもつけさせ、隙間(すきま)なく塀際に兵卒を張り付け、町屋作に小屋を()けさせ、其上、廻番(かいばん)丈夫(じょうぶ)に警固を申し付けられ、誠に獣の通いもなく在陣(そうろう)なり

 

信長公記の記述は、秀吉の鳥取城の渇え殺しとほとんど同じ様子を描写しています。

光秀は八上城を包囲し、周囲に堀や柵を張り巡らし、小屋を置いて兵士を巡回させて、食糧の輸送を出来ないようにし、城兵が飢え死にして降伏するように仕向けたのです。

幕末 魏呉蜀 書物

 

また、天正七年(1579年)2月18日に部下の関内蔵助(せきくらのすけ)に以下のように書き(つづ)っています。

 

八上城の周囲は付城で隙間なく埋め、通路は封鎖した近日落ちるであろう。

 

さらに同年4月に丹波国衆の和田弥十郎に宛てた書状では、

 

八上城からは城から退却するから助命してくれと懇願(こんがん)してきている。

城内では餓死者は四、五百人ともなり、城から飛び出してきた城内の者の顔色は青く(ふく)れあがり、もはや人間とも思えぬ有様だ。

麒麟がくる

 

秀吉と光秀はブリーフィングをしていた?

出世の競争をする明智光秀と豊臣秀吉

 

明智光秀の丹波八上城包囲開始は、1578年の4月、一方で羽柴秀吉の鳥取城包囲は1581年の6月ですから、光秀の方が先に渇え殺しを実行した事になります。つまり秀吉は光秀のやり方をパクっていた、つまり猿真似していた事になるのです。

ただ秀吉の渇え殺しは鳥取城以前からやっていて、これは1578年の5月から開始された三木合戦、その名も三木の()し殺しが最初です。そうだとすると、光秀と秀吉は奇しくも、ほとんど同時期に渇え殺しを選択した事になります。

織田信長

 

これは、もしかすると秀吉は光秀からアイデアをパクったのではなく、双方で使者同士の往来を通じて、戦略の共有化をしていたのかも知れません。元々、織田軍団は与力という遊撃部隊を置いて、軍団長になった武将の戦の手伝いをさせていました。

事実、1578年の4月に始まった八上城包囲では、信長が増援として羽柴秀長(はしばひでなが)軍を送り込んでいて、秀長は八上城の包囲攻城戦を目のあたりにしています。つまり、、

 

秀長「三木城を早急に落としたいんだけど、何かいい方法ない?」

 

光秀「ウチも八上城を攻めているけど兵糧攻めをしているぞ」

 

秀長「それは実行しているんだけど、結局、兵糧が運び込まれるしね」

 

光秀「それは包囲が甘いんだよ、塀と柵と堀を巡らして三木城を包囲しあちこちに付城を置いて、兵士を歩かせて一日中監視させ、完全に補給を断てばいいのさ」

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

秀長「それいいね!よしウチもやるか」

 

みたいなやり取りが実際にあり、ブリーフィングによって戦略が共有されていったのかも知れません。

 

戦国史ライターkawausoの独り言

 

実際は山の上に築かれた城を落とす為に、兵糧攻めをする事は光秀や秀吉以前から行われていました。ただ、光秀と秀吉が従来と違うのは、塀や堀や柵を築いて十キロ以上に及ぶ包囲網を強き敵城を完全に孤立させたばかりでなく、あちこちに出城を築いて、24時間定期的に兵士を巡回させ、獣一匹通らないようにした上で、長期間の包囲を実現した事でした。

井伊直政

 

従来の城攻めは農閑期に出兵し、農繁期には兵が集まらないので撤兵したりしていたので、山城はしばらく包囲を辛抱すればそれで良かったのですが、光秀や秀吉の包囲戦は1年を越えて継続したので飢え死にを避けられなかったのです。

秀吉が猿真似をしたかどうかは不明になりましたが、秀吉と光秀の包囲戦に共通点があった事は間違いありません。

 

参考文献:明智光秀残虐と謀略

明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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