陳琳の死因は何だったのか?建安七子を襲った疫病を考察してみよう

2020年1月2日


 

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陳琳

 

有名な建安七子(けんあんしちし)のメンバーの一人に陳琳(ちんりん
)
、という人物が登場します。彼についての説明は後ほどするとして、この人物は最終的に病気でこの世を去ります。しかし病気で死にました、なんて言われても「何の病気?」と考えてしまいますよね。

 

もちろん病死と言われていても実は……があったのが三国時代、そしてただ「病」としてしか記されていないのも三国時代、気になるならば調べてみよう言うことでして!今回は気になる陳琳の死因、この謎の病について考察をしていきたいと思います。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳琳について少々……

何進

 

まずは陳琳について少しばかり説明をさせて頂きたいと思います。陳琳は最初こそ何進(かしん)に仕えていたものの、後に袁紹(えんしょう)の元に身を寄せます。この後に官渡の戦い(かんとのたたかい)が起こりますが、ここが陳琳最大の見せ場。

 

曹操の悪口を書簡に書く陳琳

 

曹操(そうそう)の悪逆非道を書いた手紙を配りまくり、これでもかと曹操をこき下ろして袁紹に如何に正義があるかを知らしめようとさせます。もちろん曹操は大激怒。自分のことだけでなく父親、祖父まで罵られたと深い怒りを抱くのです。

 

手紙を読む曹操

 

とは言え官渡の戦いで袁紹は曹操に敗れてしまうので、最終的に曹操の前に引き出されて前述の件を詰問されると陳琳は「弓矢を引き絞ったなら打たなければならないでしょう」と答え、その答えに曹操は満足したのか許されたと言います。

 

劉邦時代の農民

 

その後は建安七子の一人として活躍しますが、217年に流行した疫病で、徐幹(じょかん
)
らなど他の建安七子のメンバーと同じく病死しました。今回の注目ポイントはここです。

 

一体どんな病だったのか?

病気になった兵士

 

さてここでは陳琳は病死とされています。また他の建安七子のメンバーの多くもこの年に病死していて、何か意図が……?と考えるも、どうやらこの年には大規模な疫病が流行したようですね。疫病と言うとどうしても農業での植物の病気を想像してしまうかもしれませんが、疫病とは本来伝染病のことを指します。コレラや赤痢、インフルエンザも疫病ですね。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

さてではこの陳琳の死因となった疫病とは何でしょうか?しかし調べてみるも他のメンバーも病死としか記述がなく、手掛かりはほとんどありません。ですがそんな中、気になる「疫病」を見つけました。

 

同じ年に流行した疫病

司馬朗

 

同じ年、217年に夏侯惇(かこうとん)に従軍して、臧覇(ふぞうは
)
らと共に孫権(そんけん)の征伐に従軍した司馬懿(しばい)の兄、司馬朗(しばろう
)
がいます。しかしこの際にもまた疫病が蔓延したようです。同じ年に同じ疫病が流行したかどうかは定かではありませんが、同じ年に流行した疫病となると何らかの関連性があるのでは、とこちらも調べてみました。

 

司馬朗

 

これによると「居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した」「司馬朗は自ら巡回して薬を与えて回った」「自分の分の薬も与えて病死した」とありました。司馬朗は広く慕われていたので多くの人が悲しんだとありますが、それはまた別のお話。

 

病気で床につく夏侯尚

 

ここで注目ポイントになるのが「居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した」というところです。

 

病の正体の推測

劉備

 

居巣は長江付近です。つまり川の近くになりますね。そして川の近くの伝染病として上げられるのが、チフスという疫病です。チフスの感染源は汚染された飲み水や食物などで、特に下水設備が整っていないと引き起こされる病気です。長江の傍で水からこのチフスが広がった……とは考えられないでしょうか。

 

ただし水場というのは体力を奪われやすく、また遠征ということで体力が失われて免疫力、抵抗力が落ちていたと言うなら、疫病の一つであるインフルエンザも考えられます。両方とも潜伏期間もあり、人によっては症状の悪化も考えられるので、この疫病はこのチフスとインフルエンザのどちらかではないかと推測しました。そこで同じ年に流行した疫病、陳琳の死因はチフス、及びインフルエンザではないか……と考えました。

 

とは言えもちろんただの風邪であっても悪化すれば命を落とします。ここではあくまで考察、推測の一つとして、同じ年に流行した疫病との関連性も考えての考察に過ぎません。しかしそれでももしかしたら、この年に行われた遠征と合わせて考えるとこの二つの可能性があると思うのですが、いかがでしょうか?

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

今回は少々粗削りではありますが、陳琳の死因、その疫病の正体が何なのか考察をしてみました。調べれば調べるほど謎が残る疫病ですが、色々な要素と組み合わせると推察することは可能です。もちろんこの考察が絶対ではありませんが、水場に不慣れな魏軍なら或いは……?と思いました。皆さんもこれに限らず「疫病」とだけされている病の正体を考察してみて下さいね。

 

参考文献:魏書王粲伝 司馬朗伝

腸チフス/wikipedia

 

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曹操孟徳

 

 

 

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