天守ってぶっちゃけ何?定義とかあるの?


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テレビを視聴するkawauso編集長

 

kawausoは2020年のNHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるに備えて、戦国時代を学んでいるのですが、途中で分からなくなるのが天守(てんしゅ)って何?という事です。実は天守には定義があって、平屋の御殿と(やぐら)の合体で重層的に構成されていれば、その天辺の構造物が天守というわけではないのです。今回のはじ三は、狭義の天守について重箱の隅を突いてみます。

 

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そもそも天守とは何なのか?

安土城 織田信長が作らせた城

 

天守について考える前に、そもそも天守とは何かと聞かれて明確に答えられる人は多分、専門家以外にはいないでしょう。普通は何となく城の天辺に(そび)えている櫓の事を天守と考えているんではないでしょうか?実際には、狭義の「天守」と呼ばれる構造物には、大体以下の特徴があります。

 

①天守台がある

身舎(もや)入側(いりがわ)がある

張出(はりだし)を持つ

長押形(なげしがた)である

廻緑(かいえん)高欄(こうらん)がある

破風屋根(はふやね)である

⑦外壁が漆喰(しっくい)黒墨(くろすみ)、柿渋で塗られる

 

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①の天守台とは、天守を載せる土塁や石垣を積んだ高台の事で、有名な安土城は十一メートルの高さの石垣の上に載せられています。②の身舎と入側とは、天守の内部に廊下や下屋、そして寝殿づくりの居住スペースがある事を意味しています。③の張出とは、天守台からはみ出した部分の事で、通常ははみ出し部分に石落としというトラップを造ったりします。

 

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

④の長押型は、柱や長押を漆喰から浮かび上がらせた造りの事を意味しています。⑤の廻緑・高欄は、天守の外側の廊下やベランダの事です。⑥破風とは屋根の妻側の端の部分のことを指し、⑦は天守だけが漆喰や黒墨、柿渋で別個にカラーリングされている事を意味しています。

 

 

一般に天守とは、①から⑦の機能を全部か幾つか持っている構造物を差していています。①から⑦に特に該当せず、ただ城の天辺にある構造物は単純に櫓と言い狭義には天守とは言いません。


天守は天守だけで完結しない

織田信長

 

さて、ここまでは天守という構造物の定義について書いてみましたが、実は①から⑦の条件を満たしただけでは、まだ天守と呼ぶ事は出来ません。天守とは櫓の天辺にある構造物というだけでは完結しない面倒くさいモノなのです。例えば安土城は、大手門の山麓部分を直線道路として、あたかも天守を目指して登っていくような視覚的な効果を狙っていました。

 

編集長日記02 kawausoさん、おとぼけさん

 

また、安土城の周辺には有力家臣の屋敷を配置し、家臣屋敷を繋いで安土山を登った城内諸道は、天守を目指すベクトルを一貫して持っています。さらに、ここから安土城には、もう一工夫あり、それぞれの城内道が到達した先の安土城の中心部は高石垣と櫓群、外桝形(そとますがた)で、なお一段高くなっていて、外から隔絶しています。

 

藤原京

 

つまり安土城とは、道、屋敷、人民、石垣、櫓、領域にある全てのモノが最も高い位置にある信長が居住する天守へと集中している造りになっているのです。本当の天守とは信長が、自身の勢力の強さをより領内の人民に見せつけ、畏怖の念を植え付ける為に考案した構造物であると同時に、非常に政治的な建築物だったのです。

 

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天守の最初は安土城天守しかあり得ない

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

天守については、織田信長(おだのぶなが)以前に、明智光秀(あけちみつひで)が築城した近江坂本城に存在したとか、永正十七年(1520年)の伊丹城(いたみじょう)で、細川高国(ほそかわたかくに)の家来の伊丹但馬守(いたみたじまのかみ)野間豊前守(のまぶぜんのかみ)という人物が、四方の城戸を閉ざし家々に火をかけて、天守で切腹したという記述が最初だという話もあります。しかし、明智光秀の近江坂本城にせよ伊丹城にせよ。或いは、構造上の①から⑦の幾つかを備えていたとしても、信長のように天守を領国支配の権力の象徴として意図的に利用していた様子は見受けられません。

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

光秀の坂本城は天守を持っていましたが、天守の付近に重臣の屋敷を配置して、直線の大手門までの道を通して、諸道を坂本城天守に集中するような造りではなく、ここには同じように天守を構えても本当の意味での天守の有用性について、光秀と信長で温度差が存在する事が分かります。つまり、狭義で考えた場合は最初の本当の天守は安土城の天守以外にあり得ないのです。


信長以後、天守に定住した大名はいない

宴会好きな豊臣秀吉

 

安土城以後、信長に続く大名達は、安土城に倣って天守を築城するようになります。ただ、信長が律義に天守に居住したのと異なり、秀吉にしても家康にしても、天守の持つ政治的な象徴性や威厳は最大限に活用しつつも、天守に居住する事はありませんでした。

 

江戸時代に入り、戦争がなくなり太平の世が開かれると、ますます天守に居住する必要性が薄れてしまい、天守をもつ城の大名も、儀式の時以外は天守に登る事はなくなり、天守は一応の居住機能は持ちながら平時は物置と化して行ったようです。それを考えても、実際に天守に住んだ織田信長は、最初に天守を築いた男として相応しいでしょう。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

以上、今回は天守とは何かについて、その構造や政治的、権力の象徴としての意味まで考えてみました。天守というのは概念が広く、単純に平屋の御殿と櫓が合体した三層、四層の重層構造の櫓の事をそのまま天守と呼ぶ事もあります。例えば、米沢城、山形城、水戸城は、天守台も天守もなく、三層櫓だけですが、それを天守代用として広義の天守に含めていたりします。しかし、狭義で天守という時には、平屋御殿と櫓が合体した複合高層建造物ではなく上に天守台を設け高石垣を積んで載せられた構造物と定義できます。このような狭い定義だと、天守を持つ城というのは、かなり限られてくるのです。

 

参考文献:NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代

 

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