長篠の戦いの勝敗を決したのは鉄砲の数ではなく鉛と硝石だった

2020年1月17日


 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

天正三年(1575年)の長篠(ながしの)の戦いは鉄砲の集中運用が騎馬隊の突撃を破った戦いとして長い間知られてきました。しかし、近年では鉄砲の三段撃ちは虚構であるという説が強くなり、鉄砲の集中運用が勝敗を決した決定的な要因だとは言えないようです。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

そして近年の研究で長篠の戦いの勝敗を決した別の要因が明らかになってきました。今回は長篠の戦いの勝敗を左右した(なまり)硝石(しょうせき)について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鉄砲の数では、織田軍と大きな差はなかった武田軍

真田丸 武田信玄

 

従来、武田氏は、織田・徳川連合軍に比較して鉄砲の導入が遅く数も少なかったと考えられ、それが鉄砲で武装した織田・徳川連合軍に敗れた原因と考えられてきました。しかし、実際は武田家では信玄の時代から鉄砲隊が編成されており、弘治元年(1555年)の第二次川中島の戦いでは、信玄は吊り下げた針も射抜けるような鉄砲の手練れを揃えたという記録が勝山記に出て来ます。

鉄砲隊を率いる今川義元

 

また、内陸の甲斐(かい)では西国(さいごく)からの鉄砲が入手しにくかった事実がある一方で、山国なので猟師が独自で鉄砲を調達して鳥獣を撃っていた事実もあり、村上義清(むらかみよしきよ)など信濃(しなの)の大名や国衆は必要に応じて、猟師を軍勢に組み込んで合戦に使っていた事が甲陽軍鑑(こうようぐんかん)に出てきます。武田も、こうした猟師を合戦に組み入れて、自前の鉄砲の不足を補っていたとすれば、織田・武田連合軍に比較して鉄砲の数が大きく劣るという事はなかったかも知れません。

火縄銃を気に入る織田信長

 

一方、鉄砲を国産化して自前の鉄砲で戦っていたと考えられていた織田・徳川連合ですが、長篠古戦場で出土した鉄砲玉は大きさがいずれもマチマチである事から、鉄砲は国産化で規格化されてなく、輸入鉄砲が主流であった事が分かっているようです。

 



長篠の戦いの勝敗を分けた鉛と硝石

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

さて、かつて言われていたような鉄砲の三段撃ちがなく、また、鉄砲の数で武田と織田・徳川連合軍に大差がないとすると、勝敗を分けたのは一体何だったのでしょう。実は、それが火薬の原料である硝石と弾丸の原料である鉛の供給量の違いでした。

鉄甲船

 

まず硝石ですが、当時の日本ではほとんど取れず海外からの輸入に頼っていました。この硝石は(さかい)伊勢(いせ)のような港を通じて入ってきていましたが、港を支配しているのは、織田家であり、織田家が硝石に困る事はなかった一方、関東の武田氏は硝石が不足していて、商人に手厚い特権を与えて量を確保し、合戦の時には本陣から各陣営に玉薬として配布していました。しかし、それでも不足し、各部将に独自の調達を命じています。

 

火縄銃(鉄砲)

 

もう一つの鉛ですが、これも東国では入手が困難でした。理由は、当時西日本で活況だった銀山での銀精製に鉛が必要不可欠で、原材料の多くが西に流れていたからのようです。別府大学の成分分析によると、長篠の古戦場から出土する鉄砲玉はほとんど鉛製であり、さらにその一部は鉛同位対比からタイのソントー鉱山から採掘したものである事が確定しています。これも、当時、鉛の需要が多く海外から鉛が輸入されていた事の証明です。

幕末 魏呉蜀 書物

 

一方で、当時の武田家の史料には、黒鉄玉(くろがねだま)(鉄玉)や青銅の玉の記述ばかりで、鉛玉はほとんど確認されません。武田家は弾丸の確保に悩み、遂に悪銭を鋳潰して鉄砲玉に転用しています。事実、武田方の山城の調査で出土した青銅玉の成分は、当時の輸入銅銭の成分比率と同じであり、銅銭が弾丸に転用された事実を裏付けています。鉛不足は武田氏ばかりでなく、実は北条氏も寺の梵鐘(ぼんしょう)を鋳潰して鉄砲玉に転用しようとしていたようです。こうしてみると鉛不足は武田だけの問題ではなく、関東の戦国大名に共通した悩みだったという事が出来るでしょう。

 

麒麟がくる

 

鉄砲の数ではなく、火薬と弾丸の数が勝敗を決した

合戦シーン(戦国時代の戦)

 

さて、以上の事を考えると、織田・徳川連合軍には十分な硝石と弾丸があり、武田には硝石と弾丸が不足していた事が明らかになってきます。つまり、長篠合戦では、織田・徳川連合軍は、無制限に発砲できたのに対し、武田方はすぐに弾薬が切れてしまった事を意味します。現に、武田勝頼は長篠の戦いの後、家臣に対し鉄砲一挺につき300発の弾丸と火薬の準備を命じています。これは、それまでの武田家の文書には見られないもので、勝頼が長篠合戦の教訓として、弾薬不足を痛感した事から出てきています。

三国志のモブ 反乱

 

もう、ひとつ弾薬不足は、武田鉄砲隊の訓練不足をもたらしました。第二次川中島の戦いでは、吊るした針を射落とした武田の鉄砲足軽ですが、弾丸と硝石の不足によりろくろく訓練が出来ず、武田鉄砲隊の命中精度は大幅に落ちていたのです。当時の合戦は、最初に鉄砲競合という鉄砲の撃ち合いがあり、次に間合いを詰めて矢戦という弓矢の勝負があり、次に長柄の武器同士が激突していました。つまり、あっという間に弾薬が尽きた上に命中率が低かった武田軍に対し、織田・徳川連合軍の鉄砲隊は延々と射撃が続き、武田方は一方的に撃たれまくり多大な損害を出したのかも知れません。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

従来の戦国時代研究では、戦術や人物研究に焦点が置かれ、物量や経済に関心が向く事が少なかったのですが、近年は戦国時代も研究が進んで、それまで分からなかった事実が浮かび上がってきました。もちろん兵法も大事ですが、合戦は今も昔も物量がモノを言う世界だったのでしょうね。

 

参考文献:歴史文化遺産 戦国大名 山川出版

 

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武田信玄

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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