【麒麟がくる】剣豪足利義輝の最期は超みじめだった

2020年2月18日


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足利義輝の最期(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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義輝は剣豪だからこそ矢に倒れた

kawauso

 

しかし、矢に倒れたから義輝が弱いかというと、そうとも言い切れません。むしろ、義輝が剣豪だからこそ、正面から攻撃する事を嫌がり、矢を射かけて殺そうとした可能性もあるからです。

 

戦国時代は時代劇のチャンバラではありませんから、剣の腕が立つ人間に剣で挑むようなバカはいません。それなら矢や鉄砲で討ち取りリスクを減らすのが当たり前なのです。とても残念ですが、義輝が本当に噂に違わない剣豪将軍でも、結果は史実と変わらない最期を迎えた事でしょう。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

最後に将軍義輝に(じゅん)じて死んだ、一人の少年武士の話をしましょう。

 

十三、四歳の年少の貴人が公方様の前に現れ、大いに奮闘し始めたので、謀反人の側の人々は口々に彼を生け捕りにせよ、殺してはならぬと叫んだ。少年は、公方様がすでに亡くなった事を知り、己が生きれば大きな不名誉になると考え、手にしていた刀を捨て、短剣を抜いて喉の一部を切り続いて腹に突き立て、義輝におおい(かぶ)さるように倒れた。

 

弱体化した幕府ですが、この日義輝に殉じ幕臣や関係者、百名余りが戦死しています。不遇であり、また実力不足でもあった義輝ですが、決して一人で孤独に倒れたのではなく、その理想を信じて付き従った人々も大勢いたのです。

 

※参考文献 1565年6月19日付フロイス書簡

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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