NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。ドラマの中の光秀は、やや恋愛面に鈍い点を持ちながらも、誠実で優しい人柄の人物として描かれています。しかし、ドラマでなくても現存する光秀の文書を読むと、部下や知人の病気や負傷を気遣うモノが他の部将と比べて、ダントツに多く、実際の光秀も優しい人物であったことが判明したのです。
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【麒麟がくる】90通の私文書から6通が病気についてのモノ
明智光秀の文書と認められているモノは、現在174通が確認され、その中から、光秀単独の文書は130通、その中から個人的な私信は90通ありますが、その中で光秀が病気や、負傷について言及・心配したものは6通確認できます。しかし、同時代の部将の文書を見てみると、光秀のそれが非常に多い事が明らかになります。
例えば豊臣秀吉の文書は434通もありますが、病気に言及したものは僅かに1通。
同じく丹羽長秀は、100通の文書から病気や負傷に言及したものは1通、滝川一益は76通の文書から、その手のモノはゼロでした。
織田信長の文書は800通が現存しますが、病気や負傷についてのモノは、僅かしか見いだせません。
このように、同時期に活躍した部将の文書から、1~2通しか見いだせない病気についての文書が光秀には6通も見いだせるのです。これは光秀の同時代の比較可能な部将との大きな違いと特徴と言えるでしょう。
【麒麟がくる】前フリを飛ばしいきなり病状を問う文書
もうひとつ、光秀の文書には大きな特徴があります。それは、当時の手紙の常識である前置きを飛ばして、短刀直入に傷の具合を聞いている文書がある事です。それは、このような感じです。
傷の具合はいかがですか。心配です。
それ以後は使者を派遣するなりして連絡すべきところ、遠路でもあって何の連絡も出来ず、ただこれは本意ではありません。よくよく養生する事が大事です。この方面の事について、越前の府中にて、皆が粉骨したため多くの敵を討ち取り、越前一国を平定いたしました。明後日に加賀に向かいます。加賀の面々も降参して、私達を迎えるために出向いてくるとの事なので、こちらもすぐに平定されるでしょう。帰陣したら参りますのでお話しましょう。
このように、光秀は前置きを飛ばしています。この送り主は小畠左馬進と言い、丹波の国人ですが、よく光秀の為に戦い後には明智の姓を光秀に贈られています。それだけに負傷についても、光秀には自分の為に戦い負傷したという負い目があったのでしょう。
【麒麟がくる】お見舞い文に返事を書く光秀
部下や知人に対し、文書で気を遣う光秀の態度は、周辺の人々にも影響を与えたようです。先の小畠左馬進は、光秀と正室の煕子が病気になったと聞き、同じように見舞いの文書を出しています。光秀は、それに対してもお礼状を書いており、それが残っているのです。
両人に宛ててのお手紙を拝見しました。
妻の病気については、とくに問題ないのでご心配なく。見舞いについてもご無用に願います。この間とくに力を入れて普請をなさったとのこと、まことに長期のご苦労有難く思います。なお直接お目にかかった時にお話ししますので、この書状では詳しくは述べません。
通常、このような見舞状は、内容を確認した上で裏面を字の練習に使うなどし、その後は廃棄されるのが普通で、運よく見つかる時には、襖の裏紙などになった時です。ところが、この文書はそのまま残っていますので、恐らく小畠佐馬進は光秀からの手紙を大事に仕舞ったのでしょう。
それだけ小畠は光秀を大事に思い、光秀もまた、小畠に対し親身になっていたのだと思います。光秀の気持ちは部下にも伝染し、善意の応酬のように手紙が往復したのです。
【麒麟がくる】他人の気持ちが人一倍分かる人だった光秀
このように手紙を通し、光秀と暖かい交流があった小畠左馬進ですが、天正七年正月、丹波八上城を包囲していた途中、逆襲してきた波多野方の兵と籠山という場所で交戦し、あえなく討ち死にしました。
明越討死仕候儀、難成筆者候
明智越前守(小畠左馬進)討ち死にしたとの報告を受ける、何を書けばよいのか筆が動かない・・・
左馬進の死を知った光秀は、その正直な気持ちを吐露しています。その後、光秀は左馬進の遺児、千代丸に対し明智姓を授けると共に後見役を定めて千代丸が13歳になった時に家督を返す事を文書でしたため、小畠家に対して出来る限りの便宜を図っています。
もちろん、光秀が善人で、信長や秀吉が残酷非道な人物であったと言うつもりはありません。光秀も激烈に抵抗する敵には容赦がなく、虫を殺すように命を奪っています。しかし、少なくとも身内に対しての光秀は、当時の同年代の部将と比較しても非常に愛情深い人であったと言えるでしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
狡猾で残忍、忍耐強くて、己を偽る事に巧みと宣教師に書かれた明智光秀ですが、一方で善政を敷いた名君として、ゆかりの地では今でも讃えられています。敵やライバルにとって手ごわい相手だった光秀も、戦国武将の仮面をとった場所では、部下や家族を愛し、優しい心遣いが出来る人物だったのでしょう。そうであればこそ、光秀は外様でありながら異例の出世をし、人々の記憶に残る存在になったのです。
参考文献:信長家臣明智光秀 平凡社新書
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