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張郃はどうして張飛に負けても処罰されなかった?

2020年3月7日


 

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張コウ 張郃

 

魏の五虎将軍の第四位といえば張郃(ちょうこう)です。元々は袁紹(えんしょう)配下で麹義(きくぎ)と共に攻めの重鎮だったものが、曹操に降って活躍したのですがよく見てみると百戦百勝というわけでもなく、宕渠(とうきょ)の戦いでは張飛(ちょうひ)に敗れたり、第四次北伐では祁山(きざん)諸葛亮(しょかつりょう)の伏兵に引っ掛かり戦死したりしています。

 

曹操

 

しかし、張郃は敗北していながら処罰された様子がありません。信賞必罰(しんしょうひつばつ)を貫く方針の曹操(そうそう)はどうして張郃を処罰しなかったのでしょう?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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安全に負けている張郃の手腕

 

では、もっとも張郃の負けが際立つ宕渠の戦いを見てみましょう。宕渠の戦いとは、夏侯淵(かこうえん)と共に漢中を守備して劉備(りゅうび)を防いでいた張郃が、別軍を組織して巴東・巴西二郡を降してその民を漢中に移動させようとした一種の人間狩り作戦です。しかし、宕渠まで進軍した所で張飛に迎撃され、隘路(あいろ)であったので軍は互いに連携する事が出来ず、張飛に敗北しました。

兵士 朝まで三国志

 

敗れた張郃は馬を捨て、十数人の幕僚(ばくりょう)と山伝いに移動しつつ、現地の住民に道を(たず)ねながら南鄭(なんてい)に帰還しています。一見、大敗に見えますが戦死者や負傷者の記録がない事から、損害は軽微(けいび)であったと考えられます。

 

考えてみれば、それもそのはずで張飛としては、巴東・巴西の人民が漢中に連れ去られるのを阻止すればそれでいいだけの戦いなので、深追いをしなかったのでしょう。

実は頭がイイ賢い張飛

 

こうしてみると、張郃は負けっぷりのよい将軍だと言う事が出来ます。曹操の命令である漢中の防衛は夏侯淵に任せてしっかり維持しつつ、自身は別動隊を率いて人間狩りに出かけ敗北が分かると、すぐに馬を捨てて逃げ、十数人の幕僚で周辺を固めつつ帰還したのです。

 

ゾンビのように何度も蘇る張コウ(張郃)

 

曹操の命令は遵守(じゅんしゅ)しつつ、サブで部隊を編成して、上手くすれば人民を得る事が出来るという見立てで戦術を練るわけですから、大きな処罰を受けるいわれはありません。

 

念を押して敗北している張郃

司馬懿、張コウ

 

張郃の次の敗北は、戦死する事になった第四次北伐の時です。諸葛亮は第四次北伐で祁山に出征し、木牛によって食糧を運搬しますが結局補給が続かず、退却する事になります。三国志演義では、張郃は司馬懿に対して追撃を強硬に主張。司馬懿は伏兵に気を付けるように念を押して許可しますが、張郃は結局伏兵にハマり矢を受けて戦死します。

手柄を立てる張コウ(張郃)

 

ところが、これは三国志演義のフィクションでして、現実は全く逆でした。つまり司馬懿が張郃に蜀軍を追撃するように(うなが)し、張郃は反対しているのです。張郃は、軍法では城を包囲する時には必ず逃げ道を用意し、退却する敵軍は追撃してはならないとあります。追撃は危険ですと主張していますが、司馬懿がどうしても追撃を命じたので、やむなく出撃して、案の定、木門という小高い崖に挟まれた場所で崖の上からの弓の射撃を受けて戦死しています。

弩(ど)を発射させる蜀兵士達

 

これについては、全くの司馬懿のミスであり、恐らくわざと張郃が死ぬように仕向けたのでしょうが、それはさておき、敗北はしたものの張郃に落ち度がない事は明白でした。

 

魏のマイナー武将列伝

 

張郃敗戦のポイント

曹操

 

張郃の敗戦をまとめると次のようになります。

 

①メインの命令は厳守した上で副次的な行動で敗北している。

②この作戦は失敗すると主張した上で出撃し敗北。

 

張コウ(張郃)が曹操軍配下に加わり喜ぶ曹操

 

このように、張郃は大事なポイントはちゃんと厳守し、副次的な部分での敗戦しかありません。曹操としても、漢中を劉備から死守せよという命令を張郃がちゃんと守っている以上は、小さな敗戦を咎める事まではしませんでした。

曹操に仕える張コウ(張郃)

 

第四次北伐においては、退却する軍に伏兵があるのは常識であり、追撃してはいけないと兵法の常道を説き、それでも司馬懿が行けと命じたので出撃し戦死しています。この場合、無理な命令を出した司馬懿が責められるべきであり、張郃に落ち度がないのは言うまでもありません。

山頂に陣を敷いた馬謖

 

逆に、例えば馬謖(ばしょく)は、街亭(がいてい)の山頂に布陣してはいけないという諸葛亮の命令を全く無視して頂上に陣を敷き、張郃に水を絶たれた上に、挽回(ばんかい)も出来ず敗戦しているのであり、同じく負けたと言っても、張郃とは敗北の内容が違う事が分かりますね。

 

官渡の戦いでも袁紹を諫めてから出撃

曹操にコテンパにされる袁紹

 

曹操の配下の時ではありませんが、官渡の戦いでも、張郃は官渡を高覧(こうらん)と共に攻めて、落とす事が出来ずに敗北し降伏しています。この時も張郃は、袁紹に曹操の城は簡単には落ちませんと諫言(かんげん)したにも関わらず袁紹は、郭図の進言を採用する形で、無理強いで張郃に出撃を命じています。そして、案の定負けたのですから、張郃が正しかったわけです。

 

馬謖の陣形に笑う張コウ

 

曹操は張郃を春秋時代の呉の名将、伍子胥(ごししょ)と比較して、伍子胥はボンクラな主君、夫差(ふさ)を見捨てずに諫め続けて命を失ったが、張郃は、ボンクラ袁紹を見限って投降したのだから、ちゃんと時勢を見ていると褒め讃え偏将軍に任命しています。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

実際に百戦百勝の名将というのは、なかなかいないわけですが、勝率が高い将軍というのは、時々の敗戦でも、致命的な敗北や、主君の命令無視というような誤りを犯さずに、いわば安全に敗北する事で、全滅を回避する能力を備えているようです。今回挙げた張郃も、敗戦した事はあれど、それが致命的な失敗にはならない点が、彼が名将たる所以になっているのでしょうね。

 

参考文献:正史三国志張郃伝

 

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全訳三国志演義

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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