麒麟がくるで、駒が望月東庵の養女になる前に世話になっていたのが旅芸人の伊呂波太夫の一座です。大道芸人として、サーカスのように北から南まで日本中を移動し大名や豪商にも知人が多い伊呂波太夫ですが、一体、伊呂波太夫の一座はどのようにして食べているのでしょう?それを調べてみると、とても面白い事が分かってきました。
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一揆が大衆芸能の母体になった
鎌倉時代から、南北朝期にかけ政情不安により支配体制が揺らいでくると、荘園に働く人々は自らの身を守り生活を自衛するために、惣村というシステムを構築していきます。惣村とは、乙名や沙汰人などの指導者を決め、若衆という若者を自衛の兵力にした自助組織で寄合という合議により、惣村の運営をしていました。
惣村に所属するメンバーは、全体で決めた掟を堅く守る事を誓っていました。この誓いを立てる事を一揆を結ぶと言います。似たような事は農村だけではなく、町でも結ばれ、そのような町を惣町と言いました。
このような一揆は、武士でも寺社でも貴族でも社会の様々な階層で結ばれました。例えば、土岐明智氏は、美濃中の明智一族で桔梗一揆を結び、鉄の団結で無敵の強さを誇った時期があります。
さて、前述したように、一揆の意思決定は合議制の寄合で行われます。もちろん、ひたすら真面目に額を突き合わせているだけでは疲れますから、寄合が終わると宴が開かれました。そして宴の余興として盛んに取り入れられたのが連歌であり、加えて猿楽や田楽これらから派生した能や狂言でした。茶の湯や生花も、こうして盛んになります。
惣、そして一揆の出現が、大衆芸能の需要を生み出したのです。
余興や村祭りで連帯感を強化する
連歌にしろ茶の湯や生花にしろ、これらの余興は参加者が共通の目的を持って技や教養を競うものでした。田楽や猿楽の観劇は、お酒を飲み美味しいものを食べるので、一揆の連帯感と親睦を高めました。
また、鎌倉から南北朝期には、鎮守の森や寺が寄合の決定で次々と建立され、村祭りや盆踊りが営まれる事になります。これらにしても、正月やお盆に共通の祖先や農業神、商業の神を崇める事で、一揆の結束を高めたり、ストレスを発散させる目的を持っていました。
それらの祭りから生まれたのが、盆踊りの一種である風流踊りで、参加者が派手に仮装し、賑やかな音楽に合わせて激しく踊り狂いました。またこの風流踊りは、お盆だけではなく正月や収穫を祝う村祭りにも行われ、部落ごとに踊り部隊を形成し、村の鎮守や惣堂および領主の館にも、入れ替わり立ち代り乱入して踊り狂う集団喧騒の場でもありました。
何となく現代の阿波踊りにも似ていますね。
例えば、文明18年(1486年)京極氏に月山富田城を追放された尼子経久は、鉢屋衆という芸能集団が正月に富田城で演芸を披露する事を聞きつけ、首領の鉢屋弥之三郎に接近して味方につけます。
実は鉢屋衆にとって芸能集団とは一面に過ぎず、本当の生業は忍者でした。正月の演芸が始まり、庶民が大勢富田城内に入り身動きが取れなくなった頃、経久の一党が太鼓を叩きつつ富田城に放火、大混乱する城内で鉢屋衆も刃物を抜いて、手当たり次第に庶民も城兵も斬りまくり暴れまくって城主の塩屋掃部介を自害させます。
これにより尼子経久は富田城を乗っ取り、城主に返り咲きました。なんとも乱暴な話ですが、当時、祭りが庶民にも開放されていた証拠です。
このように、祭りは身分に関係なくオープンだったので、城主や貴族に雇われていた謡や音楽を披露する旅芸人が、風流踊りなどで城内や貴族の屋敷で庶民と交流するようになり、時には旅芸人が庶民と城主や貴族との関係を仲介したのです。
芸能民の誕生
このように惣と一揆の形成が、一揆集団の団結と繁栄を祈る村祭りのような神事を不可欠にし、それまで、寺社や貴族に隷属していた専門的な芸能民が独立して営業をする事を可能にしたのです。
芸能民は座を形成し惣村や惣町は、芸能一座と契約を結び、毎年の神事の余興を予約していきました。これにはもちろん金銭の授受を伴うので旅芸人は契約に従い、北から南へ、惣村、惣町や大名、貴族の屋敷を転々と移動していくようになります。
芸能民はまた、人々に芸事の稽古をつけるなどして活動の場を広げていく事になります。麒麟がくるに登場する伊呂波太夫も同じように、一揆を結んだ自立した惣村・惣町を巡り、芸の腕で逞しく生きていた旅芸人の女座長だったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
伊呂波太夫は架空の人物ですが、当時、旅芸人として座を組んで日本各地を公演していた芸能者は多くいたようです。そして、やはり、様々な身分の人々と通じていて情報通としても、重宝されていたようです。
麒麟がくるでも、今後も度々出番があるに違いない伊呂波太夫に注目です。
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