戦国時代は戦乱の時代であると同時にグローバル経済の時代でした。当時のカトリック教会は、宗教改革に端を発した振興のプロテスタントの信者獲得に押され、布教の道をアジアに求めていました。
そんなカトリックの布教の尖兵であるイエズス会は、日本への布教の道を開きフランシスコ・ザビエル以来、沢山の宣教師が布教の為に上陸しています。弥助は、そんな宣教師に付き従う黒人従者として日本にやってきて、日本最強の戦国大名、織田信長と縁を結んだ人だったのです。
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弥助はどうして日本に来たのか?
では、弥助はどのような経緯で宣教師の従者になり日本に来る事になったのでしょうか?
欧州では、15世紀から19世紀前半まで、ヨーロッパとアフリカ、アメリカ大陸を結んだ三角貿易が行われていました。
三角貿易とは、ヨーロッパから西アフリカへ繊維商品やラム酒、武器が輸出され、西アフリカから西インド諸島には「黒い積荷」と呼ばれた奴隷が運ばれ。西インド諸島からは砂糖や綿のような白い積荷がヨーロッパに運ばれた貿易体制です。
弥助は、東アフリカのモザンビークの出身と言われていますが、奴隷として捕らえられ当時のイエズス会の宣教師に買われて、インドに従者として随行する事になったようです。インドにはイエズス会の布教拠点があったからでした。このように弥助が日本に来たのは当時の三角貿易が大きく影響しています。もし弥助が別の商人に買われていたら西インド諸島で砂糖や綿の生産に従事していた事でしょう。
天正九年宣教師ヴァリニャーノに連れられて信長に出会う
弥助はインドから宣教師ヴァリニャーノの従者として日本にやってきます。そして、最晩年の信長と出会う事になります。天正九年二月二十三日の信長公記には以下のようにあります。
切支丹の国から黒人がきた。年齢は二十六か七歳に見えた。この男は全身が牛のように黒く、健康そうで立派な体格であった。しかも力が強く十人力以上である。伴天連が連れてきて信長に挨拶させたのである。
誠に信長の威光で、古今知り得なかった三国の名物や、このような珍しい人物を近々と見ることができて、ありがたいことである。
この太田牛一の感想から見ると、弥助は当初、海外からきたキリンや象のような珍しい生き物というような扱いだったのでしょう。好奇の視線は、信長とてまた同じだったようです。
京都には人だかり信長は弥助の肌の黒さを信用せず
地球が丸い事はたちどころに理解した信長ですが、この世に肌が黒い人間がいるとは容易に信じなかったようです。(これは伴天連坊主が、わしを騙そうと思って体中に黒い墨を塗ったのではないか?)と疑い、小姓に命じて、弥助の着物を脱がせ体を洗わせると彼の肌は白くなるどころか、一層黒く光ったので驚きようやく信じました。
また、弥助が京都にいる事が分かると見物人が殺到、喧嘩、投石が起きて重傷者が出た事がイエズス会日本年報に出て来ます。弥助はその特異な容姿で当時の京都でアイドル的な人気を博したのでしょう。
信長の弥助への気遣い
宣教師のロレンソ・メシア書簡には、弥助に対する信長の対応の変化が記録されています。
信長自身、弥助を見て驚き、生まれつき黒いのであって墨による細工でないことをなかなか納得しなかった。信長は度々弥助を引見した。弥助は幾らかの日本語を解したので彼と話して飽くことがなく、また弥助は非常に力があり、幾らかの芸ができたので信長は大いに喜んだ。今では信長は弥助を厚く庇護しており、 その旨諸人に知らしめるため、腹心の家臣一人を付けて市中を巡らせた。
ロレンソの書簡では、信長は当初、弥助という存在を受け入れられなかったものの、何度か引見して会話をするうちに心を通わせ、弥助の力の強さと幾つかの芸をこなす器用さを気に入り、最後には弥助を保護し、弥助に危害を加えさせないように、家臣を一人つけて市中を巡らせて、弥助が信長の部下である事を周知させるまでに変化した様子が書かれています。信長は、弥助が見物人に取り囲まれて迷惑するのを可哀想に思ったのでしょうか
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