弥助とはどんな人?信長お気に入りの黒きサムライ

2020年3月22日


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弥助とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田勝頼征伐に弥助も従軍

武田勝頼

 

信長は弥助を大いに気に入り、ヴァリニャーノと交渉して譲り受け、正式に武士の身分として取り立てたようです。この弥助を信長は武田勝頼(たけだかつより)征伐にも従軍させたようで、途中家康の領地を通った時に家康の部下の松平家忠(まつだいらいえただ)が目撃しています。

 

弥助のことが大好きな織田信長

 

「上様は召し抱えているデウスが進上した黒男をお連れであった。全身墨のようで身の丈は1.82メートル、名は弥助と言うそうだ」このように家忠日記にはあるようです。

 

本能寺の変で弥助走る

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

信長のお気に入りだった弥助も本能寺に逗留(とうりゅう)しており、本能寺の変では信長の命令か自らの意志か不明ですが、寺を出て織田信忠(おだのぶただ)が宿泊する二条新御所へ行って異変を知らせたそうです。そして、やがて押し寄せてきた光秀の軍勢に対し、信忠を守るべく臆する事なく戦い、最後には投降を呼びかける明智の兵に応じて捕らえられました。

 

イエズス会日本年報によると、弥助は相当に長い時間戦い、明智の家臣が弥助に近づいて、「恐るることなくその刀を差出せ」と言ったのでこれを渡したとあります。捕縛(ほばく)した弥助をどうするか問われた光秀は黒奴(こくど)は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず「インドのパードレの聖堂に置け」と命じたので弥助は南蛮寺に送られ一命を取り留めたそうです。

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

光秀の発言は人種差別とも、助命の為の方便ともいわれますが、その前の段階で明智の家臣が投降を呼びかけているので、殺す気はなかったのでしょう。また、弥助は長時間奮闘して重傷だった可能性もあり、それを見かねて投降を呼びかけたかもしれず、治療の為に病院でもあった当時の南蛮寺に預けられたとも推測できます。南蛮寺に預けられた弥助は、その後ぷっつりと消息を絶ち歴史の闇に消えてゆきました。

 

弥助と同じ故郷から来た人々

安土城 織田信長が作らせた城

 

ルイス・フロイスの記録には、太閤秀吉が朝鮮出兵の為に名護屋城に滞在していた頃に、表敬訪問に来た南蛮船の司令官 ガスパル・ピント・ダ・ロシャが引き連れてきたカフル人(現モザンビーク)が秀吉一行に見せた踊りの様子を記録に残しています。

 

複雑な大砲をいとも簡単に操縦するカフル人

 

カフル人たちは赤い衣装をまとい、太鼓と笛を携えていました。太閤様はカフル人たちに笛と太鼓に合わせて踊らせました。

カフル人たちは元来、この上もなく踊りが好きでしたから、それを見る人々は腹を抱えて笑い転げました。と申しますのは彼らには順序も調和もあったものではなく、あっちに飛びこっちに跳ね、始めたら最後、いくら「もうよい、十分だ」と言いましても踊りをやめさせる方法とてなかったからでございます。

 

大砲を扱うカフル人

 

ダンスが大好きで陽気なカフル人の特徴は、同じモザンビークから来た弥助にもあり、天下人の重圧に押しつぶされそうになる信長の心を(なぐさ)めたのかも知れませんね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

弥助は、武士として信長に取り立てられ、その恩義を返す為に奮戦したのでしょう。信長の死後、信忠を守るべく二条新御所に駆けこんだのも、織田家を絶やすまいという武士の行動様式そのものです。

 

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

そこには、信長との心の交流があったと考えられます。信長は傲慢(ごうまん)ながら勇気と正義を重んじ質素でもありました。弥助は片言(かたこと)の日本語で信長と会話する間に信長に感化され、本当の武士として織田家を守ろうと考えたのだと思います。

 

人種と民族を越え、心と心で結びついた弥助は黒いサムライとして歴史に名を刻んだのです。

 

参考文献:現代語訳 信長公記

参考文献:フロイスの見た戦国日本

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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