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この記事の目次
武田勝頼征伐に弥助も従軍
信長は弥助を大いに気に入り、ヴァリニャーノと交渉して譲り受け、正式に武士の身分として取り立てたようです。この弥助を信長は武田勝頼征伐にも従軍させたようで、途中家康の領地を通った時に家康の部下の松平家忠が目撃しています。
「上様は召し抱えているデウスが進上した黒男をお連れであった。全身墨のようで身の丈は1.82メートル、名は弥助と言うそうだ」このように家忠日記にはあるようです。
本能寺の変で弥助走る
信長のお気に入りだった弥助も本能寺に逗留しており、本能寺の変では信長の命令か自らの意志か不明ですが、寺を出て織田信忠が宿泊する二条新御所へ行って異変を知らせたそうです。そして、やがて押し寄せてきた光秀の軍勢に対し、信忠を守るべく臆する事なく戦い、最後には投降を呼びかける明智の兵に応じて捕らえられました。
イエズス会日本年報によると、弥助は相当に長い時間戦い、明智の家臣が弥助に近づいて、「恐るることなくその刀を差出せ」と言ったのでこれを渡したとあります。捕縛した弥助をどうするか問われた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず「インドのパードレの聖堂に置け」と命じたので弥助は南蛮寺に送られ一命を取り留めたそうです。
光秀の発言は人種差別とも、助命の為の方便ともいわれますが、その前の段階で明智の家臣が投降を呼びかけているので、殺す気はなかったのでしょう。また、弥助は長時間奮闘して重傷だった可能性もあり、それを見かねて投降を呼びかけたかもしれず、治療の為に病院でもあった当時の南蛮寺に預けられたとも推測できます。南蛮寺に預けられた弥助は、その後ぷっつりと消息を絶ち歴史の闇に消えてゆきました。
弥助と同じ故郷から来た人々
ルイス・フロイスの記録には、太閤秀吉が朝鮮出兵の為に名護屋城に滞在していた頃に、表敬訪問に来た南蛮船の司令官 ガスパル・ピント・ダ・ロシャが引き連れてきたカフル人(現モザンビーク)が秀吉一行に見せた踊りの様子を記録に残しています。
カフル人たちは赤い衣装をまとい、太鼓と笛を携えていました。太閤様はカフル人たちに笛と太鼓に合わせて踊らせました。
カフル人たちは元来、この上もなく踊りが好きでしたから、それを見る人々は腹を抱えて笑い転げました。と申しますのは彼らには順序も調和もあったものではなく、あっちに飛びこっちに跳ね、始めたら最後、いくら「もうよい、十分だ」と言いましても踊りをやめさせる方法とてなかったからでございます。
ダンスが大好きで陽気なカフル人の特徴は、同じモザンビークから来た弥助にもあり、天下人の重圧に押しつぶされそうになる信長の心を慰めたのかも知れませんね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
弥助は、武士として信長に取り立てられ、その恩義を返す為に奮戦したのでしょう。信長の死後、信忠を守るべく二条新御所に駆けこんだのも、織田家を絶やすまいという武士の行動様式そのものです。
そこには、信長との心の交流があったと考えられます。信長は傲慢ながら勇気と正義を重んじ質素でもありました。弥助は片言の日本語で信長と会話する間に信長に感化され、本当の武士として織田家を守ろうと考えたのだと思います。
人種と民族を越え、心と心で結びついた弥助は黒いサムライとして歴史に名を刻んだのです。
参考文献:現代語訳 信長公記
参考文献:フロイスの見た戦国日本
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