NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも、老獪さと親しみやすさを両立させた大物ぶりを見せている松永久秀。この後、主君の三好長慶を失った久秀は、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長の傘下に入ります。
しかし、久秀は信長の傘下にあった11年で三度も謀反し、最後は信長の説得も無視して信貴山城で最期を遂げてしまいます。この、あまりに多い謀反の原因は、久秀のライバル筒井順慶のようなのです。
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大和領有を巡り争い続けた犬猿の仲
松永久秀と犬猿の仲の筒井順慶は、守護を戴かない国として有名な大和国興福寺の宗徒である筒井順昭の子として生まれます。当時の大和国は僧兵を擁する興福寺と大和四家と呼ばれる、筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の宗徒武士団が支配する国でしたが、順慶2歳の頃に父の筒井順昭が疫病で急死。急遽、筒井順慶は家督を継ぎ、叔父達の補佐を受けて領地を運営します。
しかし、その頃、摂津で勢力を伸ばした三好長慶が台頭。永禄二年(1559年)大和は三好氏重臣の松永久秀の侵攻を受け、徐々に圧迫されていきます。
永禄八年に三好三人衆と松永久通が将軍足利義輝を殺害すると、三好三人衆と決裂した久秀は、叔父の筒井順政を失い基盤が不安定化した筒井順慶の居城、筒井城を陥落させ、順慶は一族の布施左京進のいる布施城に逃走しました。この事があってより、筒井順慶と松永久秀は大和支配を巡り、度々戦う犬猿の仲になります。
松永久秀、信長上洛に従い足利義昭に帰順
その後、筒井順慶は三好三人衆と結ぶと筒井城の奪還に動きます。久秀も遊佐氏や畠山氏のような勢力を結集し筒井城の救援に向かいますが、堺で三好義継と激戦になり筒井城の救援が不可能になって城は順慶に奪還されました。
永禄十年(1567年)順慶は、再び三好三人衆や篠原長房と結んで奈良の大仏殿を占拠して要塞化、近くの多聞山城の久秀と対峙、東大寺大仏殿を巻き込む合戦になります。ここでは久秀が勝利しますが、火攻めが類焼し大仏も大仏殿も焼け落ちています。
こうして大和が混乱する中で、足利義昭を奉じて上洛を果たしたのが織田信長でした。
松永久秀は、信長が上洛する間から緊密に連絡を取り協力を約束していました。その狙いは織田信長を味方に付け将軍権力を背景に、筒井順慶を大和から追い出す事でしたが、不幸な事に信長はこの久秀の悲願を重く受け止めていませんでした。
松永久秀、大和一国切り取り次第を許される
三好三人衆は、足利義昭上洛に抵抗しますが、織田軍はこれを追い払い畿内から駆逐しました。松永久秀は信長に娘を人質として差し出し名物の九十九髪茄子を進上。足利義昭の直臣として大和一国切り取り次第という許しを得ます。これは、実力で大和を支配しても構わないという将軍のお墨付きです。
恐いもの無しの久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫り、順慶は再び城を追われて福住順弘の下へ逃げます。さらに、信長は佐久間信盛と細川藤孝の2万の援軍を送り、大和平定をアシストしました。
久秀は気を良くし、元亀元年、敵対してきた三好三人衆と足利義昭の和睦も斡旋しました。こうして大和一国支配が見えてきたかに見えた久秀ですが、敵は筒井順慶だけではありませんでした。思わぬところから、久秀の地位を脅かす敵が出てきたのです。
足利義昭が筒井順慶と縁組した為、久秀謀反
その敵とは、松永久秀が仕えている形式上の主君である足利義昭です。義昭は、関白九条家の娘を養女とし筒井順慶に嫁がせて縁戚関係になりました。これは松永にとり許し難い裏切りでした。
松永久秀は武田信玄と通じた上で義昭に叛きました最初の謀反です。久秀は篠原長房や摂津の荒木村重と結び、足利義昭方の畠山秋高や和田惟長の居城を攻めます。筒井順慶はこれに対し辰市城を完成させ松永軍に備えました。
勢いに乗った松永久秀・久通父子、三好義継らの連合軍は、辰市城に攻め込み大規模な合戦に及びます。しかし連合軍は順慶に大敗。筒井順慶は再び筒井城を奪還することに成功します。筒井城を失ったことで久秀の居城、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断。久秀は一転して劣勢に立たされました。
元亀二年10月25日、筒井順慶は有利な状態で信長の家臣、明智光秀に斡旋してもらい信長に臣従します。松永久秀もこれはヤバイと、佐久間信盛を通じて信長に臣従し順慶と久秀は表面上和睦します。しかし、大和支配を諦めきれない久秀は信長と不協和音を生じ始めた足利義昭と連絡を取り始めます。大和支配のために久秀はなりふり構わないのです。一方で順慶は、久秀の動向を知ってか知らずか、北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面的には円滑な関係が続きました。
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