モンゴルが日本を攻めたのはデマが原因か?意外に知られていない元寇

2020年4月10日


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モンゴルが日本を攻めた理由(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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第4回使節~またもやシカトぶっこく鎌倉幕府

遣唐船(奈良時代)

 

クビライは高麗に命じ、日本人捕虜2人の送還を名目4度目の使節を派遣し、国書を送ります。朝廷はこの国書に対して返書を作成しますが、幕府はまたもやこの対応に「返書など送らなくてもいい」という意見を上奏(じょうそう
)
、結局返書は送られることはありませんでした。

 

この時期、高麗では三別抄(さんべつしょう)という軍事組織による反乱が発生していました。三別抄から日本に軍事援助を乞うための使者が送られていますが、その時三別抄は「高麗王朝(こうらいおうちょう
)
」と名乗っていました。三別抄からの国書にはモンゴル帝国を非難する内容が書かれていました。しかし、先に到来していた高麗からの使者が持ってきた国書には、日本に帰順(きじゅん
)
を要求する内容が書かれており、2つの国書の矛盾する主張に、朝廷も困惑し議論が交わされました。そして、この三別抄の使者が日本に到来した直後、5回目のモンゴルからの使者がやってきます。

 

第5回使節~モンゴル軍、ついに動く

五重塔(仏塔)仏教

 

1271年、三別抄の使者がやってきた直後に趙良弼(ちょうりょうひつ)という人物がモンゴル帝国の使者としてやってきます。クビライは趙良弼の来日に合わせ、日本から距離の近い高麗の金州(きんしゅう)に軍勢を集結させており、これはいわば軍事的恫喝(どうかつ
)
を背景として行われた日本への降伏勧告でした。

 

趙良弼は、日本がモンゴル帝国に帰順することを恐れる南宋(なんそう
)
と三別抄の妨害を受けつつも、何とか太宰府(だざいふ)に到着。しかし、やはりそこで足止めを受けます。趙良弼はやむなく国書の写し書きを太宰府の役人に手渡し、回答期限を過ぎても返答がない場合は武力行使を行うと通達しました。太宰府は国書の返答を待つ間に日本からの使者をクビライの元に派遣することを決定、趙良弼は国書への返答を待たず、日本の大使と帰国の途につきます。

 

翌年の1272年、日本の使節がモンゴル帝国=元の首都を訪問します、しかし元は日本使節の本当の目的が敵情偵察であると疑い、クビライとの謁見はかないませんでした。

 

第6回使節~妨害によって失敗に終わる

京都御所

 

1272年に、趙良弼は6度目の使者として再び日本を訪れます。日本側は返書を手渡そうとしますが、再び三別抄と南宋の妨害によって、趙良弼は日本の国都(京都)に到達することはできず、返書を受け取ることはできないまま帰国しています。

 

クビライ、遂に日本への武力行使を決定するが……。

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

6度に渡る使節がことごとく無視されるか失敗に終わり、遂にクビライの堪忍袋の緒が切れてしまいます。しかし、日本への軍事侵攻を行おうとするクビライに対し、趙良弼が意見を説きます。彼は「自分が見てきた日本人は野蛮で役に立たず、国土は山が多くて田畑を作るのに向いてなく、まして海を越えて軍を派遣するのは危険でもあるので、日本を攻めても得るものは少ない」と進言、クビライもその進言を受けて一度は日本侵攻を思い度止まります。(ただし、翌年には前言を翻して日本への侵攻を実行しますが)

 

凡人すぎた楊雍(はてな)

 

それにしても、日本への侵攻を思い立ってから実行に移すまで約10年、6回に及ぶ使者を派遣してようやく、攻撃の実行に至っている辺り、クビライも結構気が長い性格だったのでしょうか?

 

クビライが日本を欲しがったのには、あの有名な冒険家のデマのせいだった!!

水滸伝って何? 書類や本

 

クビライが日本を支配下に置こうとした直接の動機を作ったのは、『東方見聞録(とうほうけんぶんろく
)
』でその名を知られるヴェネツィアの商人にして冒険家のマルコ・ポーロから聞かされた「黄金の国ジパング」の話であったとされています。

 

マルコ・ポーロは日本についてクビライに「黄金が豊富に算出する土地であり、国中が黄金であふれている。床と屋根がすべて黄金でできた宮殿があり、豊富な宝石も算出する。赤い鶏がたくさんいて、非常に美味である」と語ったとされ、クビライはその話を聞いて黄金の国「ジパング」を我がモノとすることを欲したとされています。

 

マルコ・ポーロがクビライに語った「黄金の宮殿」とは、金箔を張った建築物として有名な中尊寺金色堂の話であるとする説もあります。ともあれ、まるで日本(ジパング)を見てきたかのように語ったマルコ・ポーロですが、実は彼が日本に来たという事実はありません。彼が語った「ジパング」の話は中国人から聞いた噂が元になっていたのです。

 

つまり、元寇はマルコ・ポーロがクビライに語った「デマ」のせいで起きた、とも言えるでしょう。日本から見れば、迷惑この上ない話です。

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石川克世

石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

-アンゴルモア 元寇合戦記
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