モンゴルが日本を攻めたのはデマが原因か?意外に知られていない元寇

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モンゴルが日本を攻めた理由(1P目)


第4回使節~またもやシカトぶっこく鎌倉幕府

遣唐船(奈良時代)

 

クビライは高麗に命じ、日本人捕虜2人の送還を名目4度目の使節を派遣し、国書を送ります。朝廷はこの国書に対して返書を作成しますが、幕府はまたもやこの対応に「返書など送らなくてもいい」という意見を上奏(じょうそう
)
、結局返書は送られることはありませんでした。

 

この時期、高麗では三別抄(さんべつしょう)という軍事組織による反乱が発生していました。三別抄から日本に軍事援助を乞うための使者が送られていますが、その時三別抄は「高麗王朝(こうらいおうちょう
)
」と名乗っていました。三別抄からの国書にはモンゴル帝国を非難する内容が書かれていました。しかし、先に到来していた高麗からの使者が持ってきた国書には、日本に帰順(きじゅん
)
を要求する内容が書かれており、2つの国書の矛盾する主張に、朝廷も困惑し議論が交わされました。そして、この三別抄の使者が日本に到来した直後、5回目のモンゴルからの使者がやってきます。


第5回使節~モンゴル軍、ついに動く

五重塔(仏塔)仏教

 

1271年、三別抄の使者がやってきた直後に趙良弼(ちょうりょうひつ)という人物がモンゴル帝国の使者としてやってきます。クビライは趙良弼の来日に合わせ、日本から距離の近い高麗の金州(きんしゅう)に軍勢を集結させており、これはいわば軍事的恫喝(どうかつ
)
を背景として行われた日本への降伏勧告でした。

 

趙良弼は、日本がモンゴル帝国に帰順することを恐れる南宋(なんそう
)
と三別抄の妨害を受けつつも、何とか太宰府(だざいふ)に到着。しかし、やはりそこで足止めを受けます。趙良弼はやむなく国書の写し書きを太宰府の役人に手渡し、回答期限を過ぎても返答がない場合は武力行使を行うと通達しました。太宰府は国書の返答を待つ間に日本からの使者をクビライの元に派遣することを決定、趙良弼は国書への返答を待たず、日本の大使と帰国の途につきます。

 

翌年の1272年、日本の使節がモンゴル帝国=元の首都を訪問します、しかし元は日本使節の本当の目的が敵情偵察であると疑い、クビライとの謁見はかないませんでした。


第6回使節~妨害によって失敗に終わる

京都御所

 

1272年に、趙良弼は6度目の使者として再び日本を訪れます。日本側は返書を手渡そうとしますが、再び三別抄と南宋の妨害によって、趙良弼は日本の国都(京都)に到達することはできず、返書を受け取ることはできないまま帰国しています。


クビライ、遂に日本への武力行使を決定するが……。

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

6度に渡る使節がことごとく無視されるか失敗に終わり、遂にクビライの堪忍袋の緒が切れてしまいます。しかし、日本への軍事侵攻を行おうとするクビライに対し、趙良弼が意見を説きます。彼は「自分が見てきた日本人は野蛮で役に立たず、国土は山が多くて田畑を作るのに向いてなく、まして海を越えて軍を派遣するのは危険でもあるので、日本を攻めても得るものは少ない」と進言、クビライもその進言を受けて一度は日本侵攻を思い度止まります。(ただし、翌年には前言を翻して日本への侵攻を実行しますが)

 

凡人すぎた楊雍(はてな)

 

それにしても、日本への侵攻を思い立ってから実行に移すまで約10年、6回に及ぶ使者を派遣してようやく、攻撃の実行に至っている辺り、クビライも結構気が長い性格だったのでしょうか?


クビライが日本を欲しがったのには、あの有名な冒険家のデマのせいだった!!

水滸伝って何? 書類や本

 

クビライが日本を支配下に置こうとした直接の動機を作ったのは、『東方見聞録(とうほうけんぶんろく
)
』でその名を知られるヴェネツィアの商人にして冒険家のマルコ・ポーロから聞かされた「黄金の国ジパング」の話であったとされています。

 

マルコ・ポーロは日本についてクビライに「黄金が豊富に算出する土地であり、国中が黄金であふれている。床と屋根がすべて黄金でできた宮殿があり、豊富な宝石も算出する。赤い鶏がたくさんいて、非常に美味である」と語ったとされ、クビライはその話を聞いて黄金の国「ジパング」を我がモノとすることを欲したとされています。

 

マルコ・ポーロがクビライに語った「黄金の宮殿」とは、金箔を張った建築物として有名な中尊寺金色堂の話であるとする説もあります。ともあれ、まるで日本(ジパング)を見てきたかのように語ったマルコ・ポーロですが、実は彼が日本に来たという事実はありません。彼が語った「ジパング」の話は中国人から聞いた噂が元になっていたのです。

 

つまり、元寇はマルコ・ポーロがクビライに語った「デマ」のせいで起きた、とも言えるでしょう。日本から見れば、迷惑この上ない話です。

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コメント

  • コメント (1)

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    • しましま
    • 2020年 4月 11日

    当時の日本人評…ものすごく的確ですな…(汗)
    日本の室町時代はリアル拳王や聖帝が何人も闊歩するリアル北斗の拳ワールドであり、鎌倉時代は星の数ほどの修羅達が日々殺し合いを演じる修羅の国でしたから。
    そしてその「おかげ」でモンゴル帝国の侵攻する気を削げたという図は…リアル戦国時代である紛争地に(介入するメリットがない限り)極力近付きたがらない他国の姿と被りまくりで興味深いです。
    (皮肉にもお陰で他国からの干渉がなく、対外的にはとても平和という図もそっくり。)

    参考資料
    ハードボイルド室町時代(高野秀行+清水克行)
    喧嘩両成敗の誕生(清水克行)
    耳削ぎの日本史(清水克行)
    殴り合う貴族達(繁田信一)
    男衾三郎絵巻
    北条氏と鎌倉幕府(細川重男)




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