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佐々成政はどんな人?戦国アルピニスト肥後国人一揆に泣いた武人の最期

2020年4月19日


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佐々成政はどんな人(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家につくも・・・

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

出遅れた柴田勝家は、清須会議(きよすかいぎ)で信長の孫の三法師を抑えた羽柴秀吉に勝つ事が出来ず、織田家の実権争いが表面化します。佐々成政は柴田勝家につきましたが、上杉景勝に備えるべく越中を動けないので、叔父の佐々平左衛門が率いる600名を援軍に出すのが精一杯でした。

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

しかし、戦いの途中に勝家の腹心の前田利家が秀吉に寝返り、さらに上杉景勝の圧迫が深刻になったので成政は娘を秀吉の人質に出し剃髪して秀吉に降伏。この時には、越中一国を安堵されます。

 

天正12年、今度は織田信雄(おだのぶかつ徳川家康(とくがわいえやす)に付いて秀吉と敵対し小牧・長久手の戦いが起こります。当初、成政は秀吉につく態度を見せていたものの、夏頃には徳川家康と織田信雄に味方しました。

 

ライバル前田利家に末森城で敗れる

前田利家

 

佐々成政は、8月28日に羽柴秀吉サイドについた前田利家の朝日山城を急襲しましたが、前田家家臣の村井長頼(むらいながより)に撃退されます。

 

長い槍が得意な前田利家

 

次に、成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断を狙い、宝達山を越えて坪山砦(つぼやまとりで)に布陣し総勢15000人で末森城を包囲し、前田利家の増援軍を警戒し神保氏張(じんぼううじはる)を北川尻に置いて警戒させます。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

末森城の戦闘は成政が有利であり、前田方は城代土肥次茂(どいつぐしげ)が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれますが、金沢城にて急報を聞いた前田利家が2500人を率いて出陣。近隣の百姓の抜け道を活用して、成政軍の警戒の手薄な海岸路を移動して北川尻を越え、末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃して、これを撃破しました。

 

冬の北アルプスまで越えたのに、、家康が秀吉に降伏

祁山、街亭

 

打撃を受けた成政に、さらに上杉景勝が攻撃を掛けてきて、佐々成政は二正面作戦を強いられます。さらにダメ押しに、徳川家康と織田信雄が秀吉の計略により重臣を殺害する羽目に陥り、秀吉に臣従する道を選んだという報告が成政に入りました。

宴会好きな豊臣秀吉

 

焦った成政は、家康に変心を促すべく、厳冬の北アルプス山脈を自ら越える冒険登山を決行します。というより、それ以外に家康に連絡を付ける方法が無かったのです。

 

その旅程は過酷の一言で成政は数名から百名とも言われる供を従え極秘裏に富山城を出て、現在の富山地方鉄道沿いに進み立山連峰の山襞(やまひだ)へ分け入っていきます。成政がアルプス横断に挑んだ時期は12月で気温はマイナス十数度、積雪は1メートルを超えていたそうで、まさしく魔の山、死の山でした。

悪党(鎌倉)

 

ただ、成政一行は無謀ではなく用意周到であり、「輪かんじき」という直径約60センチの円形をした雪道用の草鞋を履いて深い雪を踏破。さらに衣服の中に防水性の高い紙を入れ雪除けに(みの)をまとって防寒を万全にし、さらに立山の修験者をガイドに使い、一番越えやすそうなポイントを選びつつ厳寒の山越えに挑んだのです。

 

佐々成政登山隊は、難所の標高2342mのザラ峠を越え、黒部峡谷の黒部川を渡河し、さらに越中と信濃の境にある標高2536mの針ノ木峠を越え信濃大町に至ったと考えられます。途中、凍傷で動けなくなった者、滑落して命を失った者もいて、一行の半数近くが脱落したそうです。

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

こんな死ぬ思いをしてまで、成政は北アルプスを越え信濃の徳川家康の所領に到着。秀吉に降伏するのを考え直すように熱心に説得しますが、家康は応じず織田信雄や滝川一益(たきがわかずます)も色よい返事をしませんでした。

 

そんなァ、、危険な厳冬の北アルプスを越えてきたのにィ、わしって一体(涙声)・・・

 

こうして、帰路も北アルプスを越え、富山城に戻り孤立無援になった佐々成政を、羽柴秀吉が10万の軍で包囲します。色々燃え尽きた成政は、遂に織田信勝の仲介でとうとう降伏しました。

 

成政は越中のほとんどの所領を失い、さらに自身も越中に留まれずに大阪に妻子共々移動を命じられ、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)とされました。信長の配下として、血と汗と涙で積み重ねた成果のほとんどを成政は失うのです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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