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この記事の目次
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家につくも・・・
出遅れた柴田勝家は、清須会議で信長の孫の三法師を抑えた羽柴秀吉に勝つ事が出来ず、織田家の実権争いが表面化します。佐々成政は柴田勝家につきましたが、上杉景勝に備えるべく越中を動けないので、叔父の佐々平左衛門が率いる600名を援軍に出すのが精一杯でした。
しかし、戦いの途中に勝家の腹心の前田利家が秀吉に寝返り、さらに上杉景勝の圧迫が深刻になったので成政は娘を秀吉の人質に出し剃髪して秀吉に降伏。この時には、越中一国を安堵されます。
天正12年、今度は織田信雄が徳川家康に付いて秀吉と敵対し小牧・長久手の戦いが起こります。当初、成政は秀吉につく態度を見せていたものの、夏頃には徳川家康と織田信雄に味方しました。
ライバル前田利家に末森城で敗れる
佐々成政は、8月28日に羽柴秀吉サイドについた前田利家の朝日山城を急襲しましたが、前田家家臣の村井長頼に撃退されます。
次に、成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断を狙い、宝達山を越えて坪山砦に布陣し総勢15000人で末森城を包囲し、前田利家の増援軍を警戒し神保氏張を北川尻に置いて警戒させます。
末森城の戦闘は成政が有利であり、前田方は城代土肥次茂が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれますが、金沢城にて急報を聞いた前田利家が2500人を率いて出陣。近隣の百姓の抜け道を活用して、成政軍の警戒の手薄な海岸路を移動して北川尻を越え、末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃して、これを撃破しました。
冬の北アルプスまで越えたのに、、家康が秀吉に降伏
打撃を受けた成政に、さらに上杉景勝が攻撃を掛けてきて、佐々成政は二正面作戦を強いられます。さらにダメ押しに、徳川家康と織田信雄が秀吉の計略により重臣を殺害する羽目に陥り、秀吉に臣従する道を選んだという報告が成政に入りました。
焦った成政は、家康に変心を促すべく、厳冬の北アルプス山脈を自ら越える冒険登山を決行します。というより、それ以外に家康に連絡を付ける方法が無かったのです。
その旅程は過酷の一言で成政は数名から百名とも言われる供を従え極秘裏に富山城を出て、現在の富山地方鉄道沿いに進み立山連峰の山襞へ分け入っていきます。成政がアルプス横断に挑んだ時期は12月で気温はマイナス十数度、積雪は1メートルを超えていたそうで、まさしく魔の山、死の山でした。
ただ、成政一行は無謀ではなく用意周到であり、「輪かんじき」という直径約60センチの円形をした雪道用の草鞋を履いて深い雪を踏破。さらに衣服の中に防水性の高い紙を入れ雪除けに蓑をまとって防寒を万全にし、さらに立山の修験者をガイドに使い、一番越えやすそうなポイントを選びつつ厳寒の山越えに挑んだのです。
佐々成政登山隊は、難所の標高2342mのザラ峠を越え、黒部峡谷の黒部川を渡河し、さらに越中と信濃の境にある標高2536mの針ノ木峠を越え信濃大町に至ったと考えられます。途中、凍傷で動けなくなった者、滑落して命を失った者もいて、一行の半数近くが脱落したそうです。
こんな死ぬ思いをしてまで、成政は北アルプスを越え信濃の徳川家康の所領に到着。秀吉に降伏するのを考え直すように熱心に説得しますが、家康は応じず織田信雄や滝川一益も色よい返事をしませんでした。
そんなァ、、危険な厳冬の北アルプスを越えてきたのにィ、わしって一体(涙声)・・・
こうして、帰路も北アルプスを越え、富山城に戻り孤立無援になった佐々成政を、羽柴秀吉が10万の軍で包囲します。色々燃え尽きた成政は、遂に織田信勝の仲介でとうとう降伏しました。
成政は越中のほとんどの所領を失い、さらに自身も越中に留まれずに大阪に妻子共々移動を命じられ、秀吉の御伽衆とされました。信長の配下として、血と汗と涙で積み重ねた成果のほとんどを成政は失うのです。
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