佐々成政はどんな人?戦国アルピニスト肥後国人一揆に泣いた武人の最期

2020年4月19日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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麒麟にまたがる織田信長

 

「麒麟がくる」の第14話は、斎藤利政(さいとうとしまさ)と織田信長(おだのぶなが)が初めて会見した聖徳寺の場面が描かれます。この場面、信長が舅(しゅうと)の利政と出会うと同時に、二人のメジャー戦国大名の登場でもありました。その二人とは前田利家(まえだとしいえ)と佐々成政(さっさなりまさ)です。

 

今回は、こちらの両名から佐々成政について分かりやすく解説します。

 

尾張の土豪比良城主として織田家に仕える

安土城 織田信長が作らせた城

 

佐々成政は、尾張国春日井郡比良城(おわりのくにかすがいぐんひらじょう)に拠点をおいた土豪(どごう)、佐々成宗(さっさなりむね)の子として天文五年(1536年または1539年)に誕生します。元々は、岩倉織田家の織田信安(おだのぶやす)に仕えていたとも言いますが定かではありません。

 

佐々成政は三男坊でしたが、兄二人が相次いで戦死したので、永禄3年(1560年)に家督を継いで比良城主となります。成政は、若くして信長に仕え馬廻衆(うままわりしゅう)から戦功を積み重ねていき、永禄4年には森部の戦いで敵将、稲葉又右衛門(いなばまたえもん)を同僚の池田恒興(いけだつねおき)と共に討ち取る手柄を立てます。

武田騎馬軍団 馬場信春

 

その功績もあり、永禄10年には生え抜きのエリート黒母衣衆(くろぼろしゅう)の一員に抜擢(ばってき)を受け、能力主義の織田家の気風の中で出世街道を進む事になります。

 

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山(はっそうやま)の退口」では梁田広正(やなだひろまさ)、中条家忠(なかじょういえただ)等とともに少数の馬廻衆を率いて殿軍(しんがり)に参加鉄砲隊を用いて活躍、天正5年(1575年)5月の長篠の戦いでは、前田利家、野々村正成、福富秀勝(ふくずみひでかつ)、塙直政(ばんなおまさ)のような黒母衣衆と鉄砲隊を率い活躍しました。

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

しかし、その前年には長島一向一揆との戦いで嫡男の松千代丸が戦死するという悲しみも味わっています。

 

柴田勝家の与力となる

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家(しばたかついえ)を置いて北陸方面軍団長とします。日本全国で戦う事になった信長は、とても一人で全ての敵と戦う事が出来ないので、柴田勝家に北陸の制圧を任せたのです。

部下を競争させる織田信長

 

信長は勝家を補佐する与力・目付として前田利家(まえだとしいえ)、佐々成政、不破光治(ふわみつはる)の3人を府中3人衆とし、越前府中の33000石を分け与えました。成政は小丸城を築いて居城とします。しかし、府中3人衆は勝家の与力とはいえ、半分は独立した遊軍で成政も信長の命令で石山合戦や播磨国(はりまのくに)平定、荒木村重(あらきむらしげ)討伐に参加し、忙しい状態でした。

 

天正5年8月、柴田勝家は能登に侵入した上杉謙信を攻める為に加賀国に侵攻したものの、七尾城陥落の報告を受け撤退しました。

 

織田信長スペシャル

 

越中一国の支配を認められる

日本戦国時代の鎧(武士)

 

天正8年(1580年)成政は、神保長住(じんぼうながずみ)の助勢として一向一揆及び、上杉氏に対する最前線の越中国平定に関わり、天正9年2月、成政は正式に越中半国を与えられます。

一向一揆(農民)

 

天正10年3月、越中守護だった神保長住は、密かに上杉に通じていた部下の小島職鎮(こじまもとしげ)、唐人親広(かろうどちかひろ)らに富山城を急襲され捕らえられます。間もなく織田軍の反攻で助けられたものの、不覚であると信長に叱責され長住は失脚追放。代わって佐々成政は越中守護となり富山城を居城とし戦国大名にのし上がります。

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

しかし、順風満帆だったのもつかの間、天正10年の6月には本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれて横死(おうし)しました。

 

この頃、柴田勝家の北陸方面軍は、上杉軍の最後の拠点である魚津城(うおづじょう)を3カ月の攻囲戦の末に攻略したばかりでしたが、信長の死を知ると与力武将は続々と自分の領地に引き上げ、成政は逆に上杉軍の反撃を受ける事になり身動きが取れなくなります。

豊臣秀吉 戦国時代2

 

この中で柴田勝家は、なんとか上洛を図りますが、毛利氏と和睦して中国大返しを実現して明智光秀を討ち滅ぼした羽柴秀吉に先を越されました。タイミングが悪かったですね。

賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家につくも・・・

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

出遅れた柴田勝家は、清須会議(きよすかいぎ)で信長の孫の三法師を抑えた羽柴秀吉に勝つ事が出来ず、織田家の実権争いが表面化します。佐々成政は柴田勝家につきましたが、上杉景勝に備えるべく越中を動けないので、叔父の佐々平左衛門が率いる600名を援軍に出すのが精一杯でした。

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

しかし、戦いの途中に勝家の腹心の前田利家が秀吉に寝返り、さらに上杉景勝の圧迫が深刻になったので成政は娘を秀吉の人質に出し剃髪して秀吉に降伏。この時には、越中一国を安堵されます。

 

天正12年、今度は織田信雄(おだのぶかつが徳川家康(とくがわいえやす)に付いて秀吉と敵対し小牧・長久手の戦いが起こります。当初、成政は秀吉につく態度を見せていたものの、夏頃には徳川家康と織田信雄に味方しました。

 

ライバル前田利家に末森城で敗れる

前田利家

 

佐々成政は、8月28日に羽柴秀吉サイドについた前田利家の朝日山城を急襲しましたが、前田家家臣の村井長頼(むらいながより)に撃退されます。

 

長い槍が得意な前田利家

 

次に、成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断を狙い、宝達山を越えて坪山砦(つぼやまとりで)に布陣し総勢15000人で末森城を包囲し、前田利家の増援軍を警戒し神保氏張(じんぼううじはる)を北川尻に置いて警戒させます。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

末森城の戦闘は成政が有利であり、前田方は城代土肥次茂(どいつぐしげ)が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれますが、金沢城にて急報を聞いた前田利家が2500人を率いて出陣。近隣の百姓の抜け道を活用して、成政軍の警戒の手薄な海岸路を移動して北川尻を越え、末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃して、これを撃破しました。

 

冬の北アルプスまで越えたのに、、家康が秀吉に降伏

祁山、街亭

 

打撃を受けた成政に、さらに上杉景勝が攻撃を掛けてきて、佐々成政は二正面作戦を強いられます。さらにダメ押しに、徳川家康と織田信雄が秀吉の計略により重臣を殺害する羽目に陥り、秀吉に臣従する道を選んだという報告が成政に入りました。

宴会好きな豊臣秀吉

 

焦った成政は、家康に変心を促すべく、厳冬の北アルプス山脈を自ら越える冒険登山を決行します。というより、それ以外に家康に連絡を付ける方法が無かったのです。

 

その旅程は過酷の一言で成政は数名から百名とも言われる供を従え極秘裏に富山城を出て、現在の富山地方鉄道沿いに進み立山連峰の山襞(やまひだ)へ分け入っていきます。成政がアルプス横断に挑んだ時期は12月で気温はマイナス十数度、積雪は1メートルを超えていたそうで、まさしく魔の山、死の山でした。

悪党(鎌倉)

 

ただ、成政一行は無謀ではなく用意周到であり、「輪かんじき」という直径約60センチの円形をした雪道用の草鞋を履いて深い雪を踏破。さらに衣服の中に防水性の高い紙を入れ雪除けに蓑(みの)をまとって防寒を万全にし、さらに立山の修験者をガイドに使い、一番越えやすそうなポイントを選びつつ厳寒の山越えに挑んだのです。

 

佐々成政登山隊は、難所の標高2342mのザラ峠を越え、黒部峡谷の黒部川を渡河し、さらに越中と信濃の境にある標高2536mの針ノ木峠を越え信濃大町に至ったと考えられます。途中、凍傷で動けなくなった者、滑落して命を失った者もいて、一行の半数近くが脱落したそうです。

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

こんな死ぬ思いをしてまで、成政は北アルプスを越え信濃の徳川家康の所領に到着。秀吉に降伏するのを考え直すように熱心に説得しますが、家康は応じず織田信雄や滝川一益(たきがわかずます)も色よい返事をしませんでした。

 

そんなァ、、危険な厳冬の北アルプスを越えてきたのにィ、わしって一体(涙声)・・・

 

こうして、帰路も北アルプスを越え、富山城に戻り孤立無援になった佐々成政を、羽柴秀吉が10万の軍で包囲します。色々燃え尽きた成政は、遂に織田信勝の仲介でとうとう降伏しました。

 

成政は越中のほとんどの所領を失い、さらに自身も越中に留まれずに大阪に妻子共々移動を命じられ、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)とされました。信長の配下として、血と汗と涙で積み重ねた成果のほとんどを成政は失うのです。

九州征伐で手柄を立てまさかの戦国大名に返り咲く

薩摩藩の島津義弘

 

このまま、秀吉の御伽衆として飼い殺しかと思われた佐々成政ですが、再び運が向いてきます。九州で秀吉に臣従していた豊後(ぶんご)の大友宗麟(おおともそうりん)が豊臣秀吉に加勢を求め、秀吉は成政を使者として派遣したのです。

 

次いで、1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は羽柴秀長(はしばひでなが)の軍勢に属して、豊後府内から日向を経て薩摩に進軍、これに対し島津義久は、弟の島津義弘に家督を譲り、成政を仲介として秀吉に降伏しました。

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

成政は、これで大いに面目を施し、肥後一国を与えられ隈本城(くまもとじょう)の普請を開始します。この時秀吉は成政に、肥後国人はもっこすと言って独立の気風が強く、頑固で反発心が高いから、性急な改革を控えるように命じました。ところが、まさかの昇進に舞い上がっていた成政は、その注意が耳に入らなかったようです。

 

佐々成政、肥後国人一揆の責任を取らされ切腹

三国志のモブ 反乱

 

肥後の統治を命じられた成政は、秀吉の急激な改革をしてはならないという言いつけを破り、領内の国人衆の勢力を分断したり、秀吉の朱印状で安堵された領地に対し、自身も介入して、結果、年貢負担が重くなるなど、次第に肥後国人の反発を買ったようです。

 

1587年6月、隈部親永(くまべちかなが)が成政の差出検地を領知権の侵害として秀吉の朱印状を盾に拒否し、7月には隈府城(わいふじょう)に籠城。焦った成政が自ら六千の兵力で隈府城を攻めると、親永は同城を放棄して城村城に移りましたが、この頃には国人衆が呼応して挙兵、成政は独力で一揆勢を鎮圧することができず秀吉に援軍要請を行います。

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

九州を唐入りの兵站基地(へいたんきち)と位置づけていた秀吉は、早期解決を図って九州・四国の大名を総動員して一揆勢を攻撃し、肥後の一揆は鎮圧されました。しかし、命令に背いて早急な改革を行った成政に対し秀吉の態度は厳しく、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の助命嘆願の甲斐もなく成政は切腹を命じられ、52年の生涯を閉じました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

佐々成政は内政には疑問符がつきますが、野戦の司令官としては有能で三階菅笠(さんかいすげがさ)の馬印(うまじるし)を使っていました。後に蒲生氏郷(がもううじさと)が小田原征伐の時秀吉に、三階菅笠馬印の使用を願い出ると、「三階菅笠は武勇名高き佐々成政の馬印だからすぐに許可は出来ない、それ相応の手柄を立てれば考えよう」と言われ、小田原攻めで満身創痍の傷を受ける程の奮戦をしてようやく許されたそうです。あと、厳冬の北アルプスを踏破しているので、戦国のアルピニストとしてはナンバー1でしょうね。

 

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麒麟がくる

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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