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この記事の目次
九州征伐で手柄を立てまさかの戦国大名に返り咲く
このまま、秀吉の御伽衆として飼い殺しかと思われた佐々成政ですが、再び運が向いてきます。九州で秀吉に臣従していた豊後の大友宗麟が豊臣秀吉に加勢を求め、秀吉は成政を使者として派遣したのです。
次いで、1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は羽柴秀長の軍勢に属して、豊後府内から日向を経て薩摩に進軍、これに対し島津義久は、弟の島津義弘に家督を譲り、成政を仲介として秀吉に降伏しました。
成政は、これで大いに面目を施し、肥後一国を与えられ隈本城の普請を開始します。この時秀吉は成政に、肥後国人はもっこすと言って独立の気風が強く、頑固で反発心が高いから、性急な改革を控えるように命じました。ところが、まさかの昇進に舞い上がっていた成政は、その注意が耳に入らなかったようです。
佐々成政、肥後国人一揆の責任を取らされ切腹
肥後の統治を命じられた成政は、秀吉の急激な改革をしてはならないという言いつけを破り、領内の国人衆の勢力を分断したり、秀吉の朱印状で安堵された領地に対し、自身も介入して、結果、年貢負担が重くなるなど、次第に肥後国人の反発を買ったようです。
1587年6月、隈部親永が成政の差出検地を領知権の侵害として秀吉の朱印状を盾に拒否し、7月には隈府城に籠城。焦った成政が自ら六千の兵力で隈府城を攻めると、親永は同城を放棄して城村城に移りましたが、この頃には国人衆が呼応して挙兵、成政は独力で一揆勢を鎮圧することができず秀吉に援軍要請を行います。
九州を唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、早期解決を図って九州・四国の大名を総動員して一揆勢を攻撃し、肥後の一揆は鎮圧されました。しかし、命令に背いて早急な改革を行った成政に対し秀吉の態度は厳しく、安国寺恵瓊の助命嘆願の甲斐もなく成政は切腹を命じられ、52年の生涯を閉じました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
佐々成政は内政には疑問符がつきますが、野戦の司令官としては有能で三階菅笠の馬印を使っていました。後に蒲生氏郷が小田原征伐の時秀吉に、三階菅笠馬印の使用を願い出ると、「三階菅笠は武勇名高き佐々成政の馬印だからすぐに許可は出来ない、それ相応の手柄を立てれば考えよう」と言われ、小田原攻めで満身創痍の傷を受ける程の奮戦をしてようやく許されたそうです。あと、厳冬の北アルプスを踏破しているので、戦国のアルピニストとしてはナンバー1でしょうね。
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