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皇族女子にウヒョしてしまった滝口武士
それでも、退役してから賊になるものはまだマシで、中には滝口武士のままで不道徳な振る舞いに及ぶ者もいました。
寛和2年(986年)6月、伊勢斎宮になって1年間、京の郊外に設けた仮住まいの野宮で潔斎していた済子女王と滝口武士、平致光が密通した事件が日本紀略、本朝世紀に記録されています。
もっとも身を清めないといけない時期の皇族の子女を欲望のままに平気で犯すというインモラルさが当時の武士の野蛮さを物語りますが、それでも滝口武士なしには、平安京の治安を守れないのが朝廷の実情でした。
御所を武装して守り遂に北面の武士へ
モラルの無い野蛮人という悪評を受けつつも、平安京において武士は急速に受容されていきます。円融天皇の貞元2年(977年)11月、滝口武士に弓矢を帯びて内裏に出入りしてもよいという特例が認められます。
本来内裏には、近衛府の武官と特別に帯剣を許可された者以外は武器の持ち込みが禁止されましたが、その慣例を破るものでした。さらに、寛和3年(987年)3月には、無人の朱雀院を武装した武者十人が守るように命令が出されました。
この朱雀院とは、退位した天皇が隠居する邸宅の事ですが、武者十人と書かれている事に注意して下さい。この頃には天皇も上皇も武士を滝口に任命する事なく、正統な理由さえあれば、随意に身辺を警備させる為に動員できるようにしていき律令制が形骸化、武士は天皇や貴族に仕える私兵のような存在になっていきます。
それにより、従来は平安京の治安を担っていた衛府も検非違使も歴史的な使命を終え、京都は、武士によって治安が維持される社会に変貌していきました。この後、応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇に譲位し上皇として院政を開始します。
かくして、無人だった朱雀院は上皇の住まう場所になり、権力は二重構造化、同じく内裏の天皇と利害が衝突していく事になります。天皇と上皇、どちらも武士を軍事力として動員できたわけですから、結局はこれが保元の乱の切っ掛けになり、平氏や源氏がその武力で日本を掌握していくタネがここに撒かれました。
平安時代ライターkawausoの独り言
西暦889年に、宇多天皇により東国の群盗討伐の為に招集された関東の武人は滝口武士の名前で律令制に組み込まれ、初めて中央に登場するチャンスを掴みました。
非常な強さを持ちつつ、野蛮人で乱暴者として恐れられた武士は、以後270年の間に平安京の治安維持に欠かせぬ存在になり遂には武装したまま、天皇や上皇の御所を守る地位を手に入れ、保元の乱を契機に貴族を追い落とし、歴史の主役の地位を獲得するのです。
参考文献:「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都 文春新書
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