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この記事の目次
怨恨路線で粛清
怨恨路線で粛清とは、組織の内側でのトラブルを巡る延長線上での粛清です。
政治上でも命令違反でもなく、お前は気に入らないという理由で内密に行われるので、突然に斬殺されるなど、ガクブルモノが多く、真相は闇の中というケースも多いです。磯野員昌は、信長の折檻を受けて逃亡しているので、光秀同様のdv被害者かも知れません。なんでか知りませんが、怨恨路線の粛清は城の普請場が多いような気がしますね。
・ケース1:所領争いで改易追放 津田盛月
兄、中川重政と柴田勝家との所領争いで勝家の代官を射殺し、兄ともども改易追放。後に外峯四郎左衛門と改名して羽柴秀吉に仕えました。
・ケース2:神戸信孝と不和になり追放 関盛信
伊勢亀山城主で神戸信孝と不仲で織田信長から勘当されました。
・ケース3:明智光秀の配下だが謀殺 林員清
近江国人、明智光秀に属していたものの、北ノ庄城普請場で誅殺されました。
・ケース4:織田一族なのに斬殺 津田一安
織田一族なんですが、田丸城の普請場で北畠信雄の家臣に斬殺されます。
・ケース5:信長に折檻され逐電 磯野員昌
近江国人で、信長に降伏後高島郡を与えられるが、信長の折檻を受けて逃亡、姿を消しました。
用済みになったので粛清
特に命令違反をしたわけでもありませんが、長年仕えていて高い地位と高給取りであるために煙たくなり、過去の些細な過失などの理由をつけて追放したケースです。
さすがに殺してはいませんが、粛清を受けた側からすれば、ある日、一瞬にして全てを失うわけですから相当な衝撃でしょうね。ここでは有名な佐久間信盛父子の追放は除外してあります。
・ケース1:長期仕えたのに突然追放 安藤守就
美濃三人衆の1人、織田家の宿老、林秀貞と同時期に子の定治ともども追放処分を受けます。
・ケース2:追放処分 丹羽氏勝
尾張国人、安藤守就親子と同時期に追放処分にされました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
以上、あまり知られていない織田信長が関係している16の粛清について書いてみました。これが数が多いのかどうか、何しろ、他の戦国大名と比較してみていないのでなんとも言えません。でも、粛清にも政治的な理由、命令違反、怨恨、用済みと色々あるんですね。
参考文献:歴史REAL 織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌
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