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この記事の目次
孫晧の詰問にはちゃんと意味があった?
が、ここで孫晧が詰問したことに対してきちんとした意味があったのでは?と考えてみたいと思うのです。というのはこの時点では孫晧は陸抗を疑ってはいなかったのだけど、民衆、もしくは他の武将たちが孫晧を疑っていていたのでは……と思うからです。
そのため孫晧はそれに対する疑念をはらさせるために敢えて詰問をして、孫晧もそれに対して弁解することで疑念をはらしたのでは?と想像するのですが、どうでしょうか?
諸葛瑾と孫権の繋がり
こう考えたのは、過去に孫晧の祖父である孫権が同じことをしているからです。
これは孫権と諸葛瑾のエピソードですが、孫権に対して「諸葛瑾は弟が蜀にいるので裏切るのでは」と疑った人物に過去に自分が諸葛瑾に「諸葛亮を呼び寄せられないか」と尋ねた時に「弟は劉備を裏切りません、私が殿を裏切らないように」と答えたように「諸葛瑾は私を裏切らない、私が彼を裏切らないように」と答えて弁護したとされています。疑念は抱えていると不和しか招きません。その疑念をはらす機会を与えるのもまた王の務め……というのは、やや孫晧に偏った意見ですかね?
孫皓と陸抗の関係
もう一つあるのが、孫晧と陸抗の関係はそこまで悪くはなかったのではないという考えです。孫晧の異母妹が陸抗の息子に嫁いでいるので、それを考えると孫晧が陸抗を信頼していたのかは別にしても、重要な部下の一人であったことは間違いないと思います。
だからこそ孫晧は陸抗が動きやすいように取り計らったのではないかと考えられます。そのための行動があの詰問にあったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
三国志ライター センのひとりごと
今回は陸抗のエピソードに、諸葛瑾と孫権の関係を交えて考えてみました。一説にはこの諸葛瑾のエピソードは、陸遜が手紙でこの話をして疑念をはらしたという話もあるので、それを踏まえてこういう可能性もあるのでは……という考察です。
三国志演義ではよく過去のエピソードと関連付けられることがあるのが特徴となっているので、それにならってみましたがどうでしょうか?
参考文献:呉書陸抗伝 諸葛謹伝
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