サムライは、鎌倉時代から建武の新政の数年を除き明治維新まで600年以上、日本の支配者階級であった人々です。現在の私達から見るとサムライは、強く誠実で礼節に厳しい人であったイメージがあります。
それは間違いではありませんが、実はそれだけではサムライを束ねるリーダーの資格には足りませんでした。真のサムライに必要な素質、それは優しさでしたが、この優しさは現代的な意味での優しさとは意味が違っていました。
この記事の目次
剛将天徳寺了伯が涙した話
戦国時代末期、下野国佐野城主の天徳寺了伯(佐野房綱)という剛勇を誇る城主がいました。天徳寺はある時、城下に琵琶法師を読んで、どうかあわれな話を聞かせて欲しいので、その場面を語ってほしいと頼みました。
琵琶法師は心得ましたと言い、平家物語の佐々木四郎高綱の宇治川の先陣争いの場面を語ります。この場面は源平合戦のハイライトで、佐々木四郎高綱と梶原源太景季がどちらが一番に川を渡り、一番乗りを果たすかという勇壮な先陣争いです。
琵琶法師がクライマックスを語り終えると、天徳寺は両目から雨のように涙を落としました。次に、天徳寺は、もう一曲、あわれな話をやってくれぬかと頼みます。
すると、琵琶法師は古文の授業でも習う「扇の的」を語り始めました。これは源平屋島の合戦の折に、源氏方の弓の名手、那須与一が平家の小舟が舷側に掲げる赤一色に日の丸を書いた小さな扇を射落とすという緊迫感と臨場感のある物語です。さて、琵琶法師が与一が見事に扇を射落とした事を語ると、天徳寺は話の途中から、また、はらはらと涙を落としたのです。
後日部下に琵琶法師の感想を聞く天徳寺
後日、天徳寺は二人の部下を呼び出して、この間の琵琶法師の話はどうであったと質問しました。そこで二人は次のように言いました。
「はい、大変結構なもので御座いました。が、ひとつだけ不思議な事が御座います。かように勇壮な話であったのに殿はどうして涙を流されたのですか?」
すると、天徳寺は驚いた顔をして、わしは今日まで、お前達二人には命を預けられると思っていたが、それは間違いであったようだ、とガッカリしたのです。さて、どうして天徳寺は二人にガッカリしたのでしょうか?
サムライの優しさとは感受性である
天徳寺は、二人の部下に以下のように説明しました。
まず佐々木四郎高綱の気持ちを考えてみるがよい、頼朝は弟にさえ与えなかった名馬、生食を高綱には与えたのだ。そして宇治川の戦いで高綱が跨ったのは生食である。もし、この一番駆けで梶原源太景季に敗れたなら、高綱は主君頼朝に恥をかかせた事になり、二度と生きては戻れない、その悲壮な覚悟を持ち一番駆けを競っているのだ。
高綱の心中を思ったら、同じサムライとして泣かずにはいられない筈である。
さらに、那須与一についても、天徳寺は、
那須与一は源氏の代表として扇の的を射た。成功したからいいようなものの、もししくじれば源氏の名折れとして、やはり腹を斬る覚悟だったのだ。その悲壮な決意を知れば、与一の見事な弓の腕前も涙なしには聞かれないだろう。サムライたるものは、そこまで考えて物語を聞かねばならない。
天徳寺の言うサムライの優しさとは、物語の中の人物の心中を思いやるという感受性だったのです。
平家物語には心理描写はない!
実は平家物語には、扇の的については義経に無茶ぶりされて、扇の的を射抜くしかなくなった心理が語られていますが、宇治川の一番駆けについては、佐々木高綱の心理描写は記載されていません。それどころか、高綱はライバルの梶原景季に馬の腹帯が緩んでいるぞとウソをついて抜け駆けしたりしたズルい所があるサムライでした。
普通に考えると、そんなセコイ事をしてまで勝ちたいか?と高綱の行為を悪い方に取ってしまうでしょう。しかし、感受性が高い天徳寺は、なんとしても頼朝に恥をかかす事は出来ないという必死の思いが、高綱に思わずズルをさせたと考えたのです。
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