サムライの教える優しさとは?【ほのぼの日本史】

2020年5月3日


 

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日本戦国時代の鎧(武士)

 

サムライは、鎌倉時代から建武の新政の数年を除き明治維新まで600年以上、日本の支配者階級であった人々です。現在の私達から見るとサムライは、強く誠実で礼節に厳しい人であったイメージがあります。

幕末78-7_山岡鉄舟

 

それは間違いではありませんが、実はそれだけではサムライを束ねるリーダーの資格には足りませんでした。真のサムライに必要な素質、それは優しさでしたが、この優しさは現代的な意味での優しさとは意味が違っていました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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剛将天徳寺了伯が涙した話

幕末75-10_佐久間象山

 

戦国時代末期、下野国佐野城主(しもつけのくにさのじょうしゅ)天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)佐野房綱(さのふさつな))という剛勇を誇る城主がいました。天徳寺はある時、城下に琵琶法師(びわほうし)を読んで、どうかあわれな話を聞かせて欲しいので、その場面を語ってほしいと頼みました。

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

琵琶法師は心得ましたと言い、平家物語の佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな)宇治川(うじがわ)の先陣争いの場面を語ります。この場面は源平合戦のハイライトで、佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)がどちらが一番に川を渡り、一番乗りを果たすかという勇壮な先陣争いです。

 

琵琶法師がクライマックスを語り終えると、天徳寺は両目から雨のように涙を落としました。次に、天徳寺は、もう一曲、あわれな話をやってくれぬかと頼みます。

明智光秀に徹底抗戦する波多野秀治

 

すると、琵琶法師は古文の授業でも習う「扇の的」を語り始めました。これは源平屋島の合戦の折に、源氏方の弓の名手、那須与一(なすのよいち)が平家の小舟が舷側に掲げる赤一色に日の丸を書いた小さな扇を射落とすという緊迫感と臨場感のある物語です。さて、琵琶法師が与一が見事に扇を射落とした事を語ると、天徳寺は話の途中から、また、はらはらと涙を落としたのです。

 

後日部下に琵琶法師の感想を聞く天徳寺

水滸伝って何? 書類や本

 

後日、天徳寺は二人の部下を呼び出して、この間の琵琶法師の話はどうであったと質問しました。そこで二人は次のように言いました。

「はい、大変結構なもので御座いました。が、ひとつだけ不思議な事が御座います。かように勇壮な話であったのに殿はどうして涙を流されたのですか?」

 

すると、天徳寺は驚いた顔をして、わしは今日まで、お前達二人には命を預けられると思っていたが、それは間違いであったようだ、とガッカリしたのです。さて、どうして天徳寺は二人にガッカリしたのでしょうか?

 

はじめての戦国時代

 

サムライの優しさとは感受性である

明智光秀を泣かす赤井直正

 

天徳寺は、二人の部下に以下のように説明しました。

 

まず佐々木四郎高綱の気持ちを考えてみるがよい、頼朝は弟にさえ与えなかった名馬、生食(しょうげつ)を高綱には与えたのだ。そして宇治川の戦いで高綱が跨ったのは生食である。もし、この一番駆けで梶原源太景季に敗れたなら、高綱は主君頼朝に恥をかかせた事になり、二度と生きては戻れない、その悲壮な覚悟を持ち一番駆けを競っているのだ。

 

高綱の心中を思ったら、同じサムライとして泣かずにはいられない筈である。

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

さらに、那須与一についても、天徳寺は、

那須与一は源氏の代表として扇の的を射た。成功したからいいようなものの、もししくじれば源氏の名折れとして、やはり腹を斬る覚悟だったのだ。その悲壮な決意を知れば、与一の見事な弓の腕前も涙なしには聞かれないだろう。サムライたるものは、そこまで考えて物語を聞かねばならない。

 

天徳寺の言うサムライの優しさとは、物語の中の人物の心中を思いやるという感受性だったのです。

 

平家物語には心理描写はない!

西遊記巻物 書物_書類

 

実は平家物語には、扇の的については義経(よしつね)に無茶ぶりされて、扇の的を射抜くしかなくなった心理が語られていますが、宇治川の一番駆けについては、佐々木高綱の心理描写は記載されていません。それどころか、高綱はライバルの梶原景季に馬の腹帯が緩んでいるぞとウソをついて抜け駆けしたりしたズルい所があるサムライでした。

 

普通に考えると、そんなセコイ事をしてまで勝ちたいか?と高綱の行為を悪い方に取ってしまうでしょう。しかし、感受性が高い天徳寺は、なんとしても頼朝に恥をかかす事は出来ないという必死の思いが、高綱に思わずズルをさせたと考えたのです。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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