今から二十年位前までは、今川義元の評判はヒドイものでした。多分、志村けんのバカ殿と白塗りお歯黒のイメージが見事にかぶったのでしょうが、権威主義的で室町的価値観の体現者で、それが革新的な若い信長に討たれるというスジがテンプレ化していたように感じます。しかし、実際の今川義元はバカ殿どころか徳川家康の大恩人で、文武両道の最強大名だったのです。
この記事の目次
後継者争い花蔵の乱を勝ち抜いた有能なサムライ
今川義元は、戦国大名の初代にカウントされる今川氏親の5男として誕生します。家督は兄の今川氏輝が継いでいましたが、その氏輝が天文5年(1536年)に24歳の若さで死去し、子供もいないので、僧侶となっていた栴岳承芳(義元)と兄の玄広恵探が家督を巡って争い、義元が争いを制しました。
ここで勝利した義元は、それまで敵対していた武田信虎と結び、領国経営に乗り出し、父氏親が制定した「今川仮名目録」に追加した「仮名目録追加」を制定して、領国内の法治主義を徹底します。同時に、自身の教育係でもあった太原雪斎を軍師として三河侵攻を本格化させ、後顧の憂いを断つべく、武田、北条と相甲駿三国同盟を結びました。このように今川義元は、大国をなんとなく継いだような白塗りのボンボンではないのです。
決して高い石高ではない今川領が繁栄した理由
今川義元が領国とした駿河、遠江、三河の三カ国の石高は低いものでした。戦国時代は何と言っても石高の大きさがモノを言う時代です。それなのに石高の低い今川義元は、どうして東国でも最強を誇ったのでしょうか?
その大きな理由は、東海道の物流の掌握でした。戦国時代から東海道は物流が盛んで太平洋沿岸航路もかなり発達していましたのです。義元は、街道の宿や湊を掌握して関税をかけ整備し、商品流通を盛んにする事で財源を確保していたのです。
それはかなりの繁栄ぶりで、今川氏の城下町の駿府は多くの商人や職人が集まり、その人口は1万人を超えていたそうです。
商人の事は商人に商人頭の登用
もうひとつ、今川義元は適材適所を重視していました。例えば駿府の商人についてはサムライが支配するのではなく豪商の友野二郎兵衛尉を商人頭に任命して、商人の事は商人に任せています。
また、見付という土地の商人に対しては、年貢百貫を百五十貫にする事を条件に町の自治を認めていました。形式重視ではなく、万事能率が上がるように義元は工夫をしたのです。
灰吹き法を導入し金山収入も増加
それから、金山の採掘にも今川義元は積極的に取り組んでいました。すでに、義元の父の今川氏親の時代から、領内には安倍金山、井川金山がありましたが、採掘量はそんなに多くありませんでした。
ここに義元は、灰吹き法という新しい鉱山技術を導入した結果、金の採掘量が大きく向上します。灰吹き法とは、金銀を鉱石から一旦鉛に溶け込ませ、それから温度を上げて鉛と金銀を分離する方法で1533年に朝鮮半島から博多に伝来しました。当時の最新技術を逸早く義元は領内で採用したのです。
その資金力で、京都から多数の公家や文化人を招く事が可能になり、和歌や連歌や蹴鞠のような雅な京文化が駿河に流れ込んできたのです。今川義元の白塗りもお歯黒も、今から見るとバカ殿ですが、当時は日本の最先端のファッションであり、それもこれも義元の領国経営の手腕があっての事なのです。
【次のページに続きます】