晩年の豊臣秀吉は、しこたまに金銀を溜めたそうです。死期が間近い秀吉にとって、幼い秀頼に残してやれるのは金銀だけだったからでしょう。しかし、無情にも大坂夏の陣で大坂城は炎上し、秀吉の願いは無残に破れました。
では、大坂城に残った秀吉の莫大な遺産はその後どうなったのでしょうか?
この記事の目次
先鋒の藤堂と井伊に任された金銀堀り
大坂夏の陣、徳川方最大の功労者は誰だかご存知でしょうか?
実は藤堂高虎と井伊直孝なのだそうです。二人は徳川方の先陣を勤めたのですが、そればかりでなく藤堂高虎は伊賀の忍者を50名、井伊直孝は30名を大坂城に張り付けて諜報活動に従事させ、大坂方の情報収集にあたらせていました。
もっとも、二人の情報収集は主に野外活動であり、内部諜報は京都所司代の板倉勝重が部下の朝比奈兵右衛門という男を牢人に偽装させて大阪城に忍び込ませ、すでに徳川方に内通していた豊臣秀頼の船奉行、樋口淡路守から極秘情報を送らせていたようです。
これにより、家康は大坂方の作戦計画から軍勢の配置、さらには真田信繁が自分の本陣に突撃する事まで知っていたそうで、それを入手した家康は「これで勝った」と叫んだと武徳編年集成にあります。
ともあれ、これで家康の関心は、大坂落城に備えて秀頼に嫁いだ孫娘千姫の身柄の確保と豊臣家の莫大な財宝をどう入手するかに移り、先鋒の藤堂高虎と井伊直孝に、金銀の確保を命じました。
埋蔵金を巡り殺し合いが発生
大坂夏の陣直前に、家康は藤堂高虎と井伊直孝に以下のように命じました。
「大坂落城の焼け跡の豊臣家の千枚分銅は上様に召し上げる。そのほか焼け跡の金銀が溶けて湯になっているから、この金銀を藤堂と井伊にやる!有り次第取ってこい」
この太っ腹な命令を受けて、大坂落城後にさっそく藤堂家と井伊家の兵士が総出で蔵の焼け跡に移動して、溶けてしまった金銀の回収に入りますが、この溶けてしまった金銀を狙っていたのは、藤堂家と井伊家だけではありませんでした。
当時、小倉藩主だった細川忠興の家中の人間も金銀を狙っていて、藤堂家の記録では5月8日の午後2時頃に、細川家と藤堂家で戦闘が発生し、多くの死者が出た事が先鋒録という史料に出てくるそうです。人間の欲望ってのは凄まじいですね。
終始仲良く掘っていた藤堂と井伊
だとすると藤堂家と井伊家も、醜い奪い合いを演じていたのかと心配になりますが、この両者は仲良く掘っていたそうです。元々、藤堂家は外様大名で、信頼を得るために徳川家譜代には遠慮がちだったようですが、先鋒録には藤堂高虎の言葉として
「あなたも私も此度は先手のご奉公をした。それは天下の人々が見聞した事だ。かような灰ほじりは要らざる事だと存ずる」
このようにあり、豊臣滅亡の先手を勤めて天下の人に武名を轟かせたのだから、金銀堀りで醜い争いなどして、家名を汚すのはやめようと呼びかけていて、これには井伊直孝も賛同したそうです。
こういう話を聞くと安心しますね、コロナ、コロナで人の心がすさぶ一方の現在こそ、藤堂高虎の自制心、名誉を貴ぶ心は大事だと感じます。
最後でズッコケた藤堂高虎
こうして、豊臣家の分銅金を徳川家に収めた藤堂高虎と井伊直孝に対して、家康は褒美として、金と銀の分銅を一個ずつ与えたそうです。実はこの分銅金、大判千枚、或いは大判二千枚を鋳潰して作ったもので、1個の重さが大で330キロ、小で165キロもある極めて重いものでした。これでは盗もうとしても、1人ではどうにもなりません。
藤堂高虎は、金の分銅は大人4人に、銀の分銅は大人8人に担がせて品川宿まで運んできました。すると、そこに力自慢の男がいたので、高虎は飽くまで冗談で「分銅を持てたらお前にくれてやる」と軽口を叩いてしまいます。
すると、この力自慢の男、金の分銅を持ち上げてしまったので、さあ大変!内心慌てた高虎は「2個持て!1個なら誰でも出来る」と、その場を言い繕って切り抜けたそうです。なんだか、さっきまでイイ話だったのにすっかりケチがつきましたが、これも高虎の人間くささと考えると微笑ましくなります。
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