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この記事の目次
陣借りで加賀百万石の基礎を築いた前田利家
前田利家は、若い頃から織田信長に仕え、武功でエリート騎兵の赤母衣衆の筆頭になるなど、出世街道を順調に進んでいましたが、自分に対して横柄な振る舞いをする信長寵愛の茶坊主の拾阿弥という男に我慢できず、斬り捨てて出奔します。
柴田勝家などが信長を諫めたせいで、切腹は免れたものの利家の処分は出仕停止でした。今でいえばステイホームですが、当然俸給は貰えません。その頃、結婚したばかりで、幼い娘がいた利家は生活に困り、信長に許してもらおうと一念発起、桶狭間の戦いに独自参戦して、敵の首を獲る手柄を立てます。はい、陣借りです。
ところが、まだ怒りが解けていない信長は利家の手柄を黙殺しました。
心が折れそうになる利家ですが、まだ諦めずに翌年の美濃攻めにも従軍し、斎藤家の重臣、日比野下野守の家来で「頸取足立」の異名を持つ、足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取り、さらにもう一つ首を獲って、信長の前に立ちます。
さしもの信長も利家の熱意に打たれ、出仕を許した上に俸給も150貫から300貫加増し、450貫にしてやったのです。この努力があり、利家はその後も順調に出世していき、加賀100万石の礎を築く事になりました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
究極のフリーランス陣借りと、その派生形の感状について解説してみました。
実力主義の戦国時代ですが、意外な程に身分秩序は強固に残っている部分もあり、騎兵に付き従う小者などは合戦に参加しようとすると、差し出がましい真似をするなと叱られる事さえありました。もちろん、こんな状況では出世なんか望むべくもありませんので、目端が利く武士は陣借りで手柄を立てたり、感状を受けて積極的に仕官するなど行動あるのみだったのです。
参考文献:雑兵物語 Wikipedia他
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