ホントにライバル?劉備が曹操から逃げすぎな件

2020年5月22日


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曹操から逃げすぎな件(1P目)

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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バトル5:赤壁の戦い!直接対決はなし

赤壁の戦い

 

 

西暦208年の赤壁の戦いでは、劉備は呉の周瑜(の軍勢にくっついていただけで、直接、曹操と戦い、勝利したような描写は見られません。曹操軍に勝利したと言うなら勝ち星1ですが、あくまでも曹操に勝利していないので△としてカウントします。

 

 

 



バトル6:陽平関の戦いで曹操に初勝利!

二刀流の劉備

 

 

 

西暦218年、ここまで曹操に連戦連敗してきた劉備が、夏侯淵の弔い合戦で長安から、遥々やってきた曹操に初めて勝利します。しかし、この時の戦いは、これまでの野戦とは異なり、劉備は陽平関に閉じこもって出て来ず、曹操が物資を消耗して退却を決意する事になります。終始自信満々の劉備でしたが、地形の険阻()さを活用できた自信からのようですね。

 

 

憤死する麋竺(モブ)

 

 

 

翌々年の正月に曹操は死んでしまうので、劉備は最後に曹操に勝利したという形で自身の戦歴を飾る事が出来ました。

 

 

劉備の曹操怖い病も立派な兵法

幕末 魏呉蜀 書物

 

 

バトル2から、曹操相手にはひたすら逃げまくるという情けない戦法に終始した劉備ですが、これはある意味で究極の兵法を実践しているとも言えます。それは、兵法三十六計の「走為上()」、つまり逃げるより上はないというもので、どんな計略を仕掛けても相手が逃げ続ければどうしようもないという事です。

 

劉備と曹操

 

もし、劉備に負けん気があり、勝てないにしても曹操に一矢報いてやろうと考えてしまえば、曹操から逃げる時間を大幅に損ねる事になり、どこかで捕まるという失態を侵したかも知れません。

 

劉備

 

 

その場合、曹操はまず許さないと考えられ、そこで劉備の人生はジ・エンドです。しかし、劉備は普通にやったら曹操に勝てないというリアルな感覚を終始捨てないでいたので、毎回逃げる事に成功していたのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

 

自分が勝利できない相手に対して、いかに対応するかは三国志のような時代では、かなり重要な生き残りスキルです。ここは慎重にも慎重にいかないと勝てるつもりが技量が足りないとなれば、身の程知らずで終わってしまいますからね。

 

参考:正史三国志

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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