歴史の陰に女アリと言われますが、それは三国志でも変わらず。数々の運命を巡らした女性たちが出てきますね。
基本的には身分の高い人物しか名前が残らないとは言われていますが、三国志演義という存在もあって比較的三国志の女性たちは名前が知られているイメージがあります。
その中でも今回は蜀の二代目皇帝である劉禅の奥さん……と言うよりもその人物が与えた影響と、その縁者のお話をしたいと思います。
蜀の二代目皇帝劉禅
さて蜀の二代目皇帝劉禅、色々な意見がある人物ですが今回の本題は彼の奥さん。彼には二人の妻、妃が記録されています。そしてその二人とは実は両方とも劉備の義弟である張飛の娘になります。つまり姉妹で劉禅の妻になっていた訳です。と言っても一緒に妻になった訳ではなく、姉が先に妻になっていたけれど病死したので、後に妹が嫁いだようですね。この二人に付いても少しご説明しましょう。
姉・敬哀皇后
先に嫁いだ姉は、敬哀皇后と諡号がおくられています。彼女は張飛と夏侯淵の姪である女性の娘とされており、劉禅が即位した際には張皇后と呼ばれていました。しかし彼女は237年に若くして亡くなり、その際に敬哀皇后と諡名されました。名前から若くして亡くなってしまった彼女へ込められた思いが伝わってくるようですね。
そんな彼女は三国志演義では少し不遇で、姉妹合わせて張皇后一人と言う扱いになっています。どちらかというと姉である彼女ではなく妹の存在がクローズアップされているので、ちょっと先に皇后になった彼女が可哀想に思えてしまいますね。
妹・張皇后
敬哀皇后の妹で、姉が病死した後に彼女は劉禅の妻になり、張皇后と呼ばれました。姉と同じ人物に嫁ぐなんて、と思われるかもしれませんが、当時では姉が嫁いで子供ができないまま若くして死んでしまうとその妹を嫁がせるようにする慣習があったとされています。このため妹である彼女も劉禅の妻になったのです。
彼女は姉と違って早逝はしなかったようで劉禅と共に洛陽に移り住んだと言われていますが、没年は記されていません。彼女は三国志演義では劉禅の妻としてクローズアップされていて、諸葛亮の推薦で17歳で劉禅に嫁ぐことになってそのまま皇后になるなど姉よりも出番のある扱いがされています。
波紋を呼ぶ存在 張飛の妻
さてここで話しておきたいのが彼女たちの母親、つまり張飛の奥さんです。実は彼女に関してはちょっとした波紋が呼ばれています……なぜなら、張飛の妻は「張飛にさらわれて妻になった」「幼い頃に妻になった」という話があるので、年端も行かない幼い娘を攫って妻にしたの!?という張飛の行動に大きな問題があるように、現代の感覚では見えてしまう訳ですね。
張飛の妻に関しては魏略などを参考にすると「燃料拾いに行った時に夏侯性の10代の娘を拾って嫁にした」……という感じになります。年代的には曹操と袁紹が戦っていた頃ということもあり、その際の捕虜の一人であった可能性があります。そう考えると……細かいことに目を瞑れば、敵と味方、捕虜と一将軍の間のロマンスがあったのかもしれませんね!
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