『服部小平太』と聞いて、すぐに分かった人はかなりの戦国通です。「桶狭間の戦いで、今川義元に一番やりをつけた男」と言えば、ピンとくる方もおられるでしょう。
いえいえ「そもそも誰やねん」という方が最も多いかもしれません。その名前を知っている人でも、彼がその後どんな人生を送ったかということまでご存知の方は少ないと思います。今回は、桶狭間で華々しいデビューを飾った男の、波乱万丈の人生をご紹介していきます。
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服部小平太の名前が最初に出てくるのは『桶狭間の戦い』
よく知られている『服部小平太』というのは通称で、正式には『服部一忠』といいます。『春安』、『忠次』という名前で載っている文献もあるようですので、一時期そう名乗っていたとも考えられています。
いずれにしても同一人物です。生まれた年は不明ですが、尾張の国の「津島」あたりの出身であったといわれています。津島といえば、「津島湊」という交通の要衝があり、ここでの交易が織田家の財政を潤わせていたという重要拠点です。
その辺りで育った小平太は、若い頃の織田信長の遊び仲間であったと伝えられています。体が大きい上に力が強く、運動神経は抜群でした。信長と年も近かったのでしょう。気心が知れた仲というのもあったのでしょうか、信長の側近である「馬廻り」として召抱えられます。この馬廻りという部隊に配属されたことが、『桶狭間の戦い』での武功につながります。
服部小平太の名前が、文献に最初に出てくるのは、この『桶狭間の戦い』に関連した記述なのです。有名なこの戦いは、「戦国史上最も華麗な番狂わせ」ともいわれています。その番狂わせの立役者の1人が、この服部小平太です。
なんと、敵方の大将「今川義元」を、最初にやりで刺す(一番やり)という快挙!敵の本陣に突撃して、最も早く大将のところまでたどり着いたということです。しかし、さすがの義元というもの、反撃され、やりの柄と膝を切られます。そこへ、一足遅く駆けてきた同じ馬廻りの毛利新助(良勝)が、義元に襲いかかり助けてもらいます。ですが、結局討ち取ったのは毛利となりました。
そもそも『桶狭間の戦い』って何?
有名すぎるほど有名な『桶狭間の戦い』ですが、そもそもなぜ起こって、どういったものだったのか?簡単に整理しておきましょう。時は永禄3年(1560年)、織田信長と今川義元との合戦です。信長は、父信秀の死後に混乱した国内をようやく平定した直後でした。
侵攻してきたのは義元で当時42才、迎え撃つ信長は26才でした。伝わっている話では、今川軍2万5千に対し、織田軍は3千ほど(諸説あり)。その織田軍が勝利したというのですから、驚きをもって世間に受け止められ、信長の名前を後世にまで知らしめることになった戦いです。また、信長の天下取りの第一歩となったという点でも重要な戦です。
敗北した今川義元は、駿河(現在の静岡あたり)を広く治めていた大名です。ドラマなどでは、間抜けな人物のように描かれることがありますが、実はそうではありません。早くから聡明で、19歳という若さで家督を継ぎながらも、統治や外交面で大きな成果を挙げます。
この時代随一の大名だったと言っても過言ではないでしょう。その義元は、人生のほとんどを、東の北条氏と北の武田氏との戦に費やしてきました。それを、甲相駿三国同盟という外交面での奇策でもって解消し、背後への不安を断ち、満を持して西進したのです。
そして、西の織田信長と激突したのが「桶狭間」付近であったのです。義元は京に上洛するつもりだったともいわれています。そのルート上にある国を攻める、もしくは外交的な決着をつけ従えていくつもりだったのでしょう。当時としてはかなりの大軍でした。義元からすれば、負けるはずのない戦。
流れを見ても落ち度は特になく、勝つための手順を着実に踏んでいきます。ここで、正攻法で戦っても勝ち目がないと悟った信長は、死を覚悟します。「人間50年~」という「敦盛」を舞い、腹をくくり大博打にでます。
この「敦盛」、本能寺の変が描かれるときによく使われますが、記録がきちんと残っているのは実はこのときです。撃って出る義元本陣を突くしか勝ち目はない。運も信長に味方します。その日、豪雨があったと伝えられているのです。
雨の中、義元本陣は突然信長軍からの攻撃を受けます。全く予想していなかった義元軍は総崩れとなり、遂に総大将の義元まで討ち取られることになります。その後も、追撃戦で今川方を散々に痛めつけます。
このことが、今川家の衰退、松平家(徳川)の復興につながっていくわけですが、ここではその話は置いておくことにします。そう、信長はこの大博打に勝ったのです。たらればですが、もしも義元の侵攻が数年早ければ違った結果になっていたでしょう。信長は、このときのような軍事行動は取れていなかったはずです。結果論でしょうか。
これ以後、信長はこういった博打のような戦は絶対に行いませんでした。それこそ、義元のように、必ず勝てるような状態で戦に臨んだのです。それでも、負けることがある。戦とは怖いものですね。
服部小平太は織田家でさぞかし出世したのでは?
桶狭間の戦いで、世紀の番狂わせを起こした織田信長。小平太が、ここで武功をあげられたのは、馬廻りという部隊にいたからだと前にも触れました。この日、信長は3千ほどいた部隊を、通常の手順で分けて砦に向かわせました。
この動きが見事な陽動になっています。義元からすれば、想定内の一手を打ってきたという感じだったでしょう。その後、最終的に残った側近だけでひっそり砦から出て、義元の本陣に突撃したのです。その数は300程度だったといわれています。
その場に(幸運にも?)居合わられたのは、小平太などごく限られた者のみだったのです。少人数だったのでスピードが速く、義元側に悟られなかったのでしょう。小平太たちはみな必死です。
義元を討ち取れなければ全員死ぬことになる。その覚悟を共有していました。そのおかげか、見事にこの偉業を成し遂げました。勝ち戦でで、お祭り騒ぎの織田家中。ですが、報奨の場でみな驚かされます。
それは、後世では「さすが信長」といわれる特殊なものだったのです。一番やりをつけた服部小平太、義元を討ち取った毛利新助、この2人のどちらかが第一功となると誰もが思いますよね。ですが、その場で信長が最初に名前を呼んだのは『簗田政綱』だったのです。
「誰やて?(岐阜弁)」
ほとんど誰も知らない人物が、1番初めに呼ばれたのです。
簗田政綱という武将。実は彼は、隠密のような行動を取っていました。農民のような格好をして戦場にまぎれ、今川軍の動きを報告しました。その正確な情報により、信長は義元本陣の場所を特定できたのです。
武功ではなく、勝利につながる情報をもたらせた者が第一功。今でこそ素晴らしいと思われますが、当時ではあまり理解できないものだったのではないでしょうか。とにもかくにも、小平太は2番目の功労(毛利は3番目)をもらいます。しかし、心中は穏やかではなかったことでしょう。しかも、義元に切られた膝の傷が深く、その後長く療養することになるのです!
その療養期間中、小平太は家督を弟の小藤太に譲り、馬廻りもやめてしまいます。そして、しばらく歴史の表舞台から下りることになります。
弟の小藤太は本能寺の変で討ち死に
小平太がほとんど隠居のようになってから、代わりとして推薦されたのが弟の小藤太です。張り切って信長に仕え、桶狭間での兄の盟友である毛利新助や、前田利家らに可愛がられたといいます。やはり、織田家とは家族ぐるみの付き合いだったのでしょうか、近臣に置かれます。
どちらかといえば文官としての才能を発揮していたという記録が残っています。桶狭間以降、織田家は常に戦をしていました。気の休まることはほとんどなかったでしょうが、それが彼らの人生でした。そして、桶狭間の戦いから22年後の天正10年(1582年)『本能寺の変』が勃発。
知らせを聞いた小藤太は、距離的に本能寺には間に合わないと判断。信忠(信長の嫡男で、当時の君主)のいる二条城に、毛利らと共に駆けつけます。しかし、明智光秀の軍勢に抗いきれず討ち死に。このことが、また小平太の人生を大きく変えることになります。
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