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この記事の目次
本能寺の変後に秀吉に抜擢される
本能寺の変後、山崎の合戦で光秀に勝利した羽柴秀吉は、織田家の中心人物となっていきます。秀吉の人材登用は、この頃から近親者を重用する傾向が強くなったといわれています。信長が徹底した能力主義で、それによって光秀の謀反が起こったという事例を体感していたからなのでしょうか。
血縁関係のある者や、昔からなじみのある者を多く登用するようになります。その流れの中で、抜擢されたのが服部小平太でした。秀吉に呼ばれ参上する小平太。
服部家は、長年にわたって信長に重用されてきました。しかも、本能寺の変で、小藤太は命を捨てて織田家に尽くしたのです。服部家は、絶対に裏切らないと秀吉は確信していたでしょう。しかも、小平太はあの伝説の『桶狭間の英雄』なのです。
この人物を取り込めば、自分が信長の後継者であることをアピールできる。そう考えたとしても不思議ではありません。秀吉は、小平太と本能寺の変の無念さを語り合い、口説きます。それにより、小平太は再度領主として返り咲くことを決意するのです。アラフォー(40才前後)で、秀吉の馬廻り「黄母衣衆」という側近として復帰。桶狭間で鮮烈なデビューを果たした英雄が、再び戦国の世に生きることにしたのです。
小田原征伐で戦功を上げ、遂に城持ち大名に!?
小平太は、秀吉の馬廻りの中でも、精鋭を集めた黄母衣衆の一員となりました。武勇で高名な戸田勝隆なども同僚です。新しい仲間たちと、柴田勝家との一連の戦を歴戦。
賤ヶ岳の戦いにも出陣します。また、徳川家康との対立の中で起きた小牧の戦い、四国の長宗我部元親との四国での戦などにも参加。昔のように、戦に明け暮れる日々でした。
それなりに活躍していましたが、取り立てて武功をほめてもらえませんでした。秀吉は、この頃から石田三成や福島正則、加藤清正など子飼いの武将たちを中心に出世させていきます。
「賤ヶ岳の七本槍」といった、分かりやすいキャッチコピーで彼らを内外にアピールしたりもしていました。信長亡き後にも、数々の大きな戦を行っていた秀吉。「桶狭間の戦い」の功績は信長のもので、それを喧伝することは自分にとって利益にならないと秀吉は考え始めていたでしょう。
「桶狭間の英雄」も利用する必要がなくなっていたのです。出世コースから完全に外れた小平太。秀吉への不満は募っていきます。そんな中、九州を平定した秀吉は、ある大きな戦を決意します。
関東の北条氏との戦です。天正18年(1590年)、秀吉は『小田原征伐』を行います。秀吉は、本能寺の変に乗じて、織田家との盟約を破棄し攻め込んだ北条氏を許していませんでした。また、その後も氏政・氏直親子は北関東に領土拡大を図り、素直に従いませんでした。
そこで、秀吉は20万の大軍でもって包囲。まだ反旗を翻す恐れのある、毛利氏や伊達氏へみせつけるための意味合いもあったでしょう。秀吉の人生で、最も多い軍勢となりました。ここに小平太も参加しました。
記録は特にありませんが、同僚の戸田らが「砦を攻めた」という記述が文献にありますので、似たようなことをしていたと考えられます。その戦功として与えられたのが、三重の松坂城です。石高も3万5千石と立派です。小平太は、遂に一国一城の主となったのです。しかし、この人事は長年の功労賞のようなものだっといわれています。
しかも、秀吉直属の部下から、秀次付きへと配置転換もさせられます。本店営業部から地方の支店長にされるような感じでしょうか?
このことが、また小平太の人生を大きく左右することになります。
文禄の役(朝鮮半島への侵攻)にも参加
天下統一を果たした秀吉は、次なる戦を求めて朝鮮・明への侵攻を企てます。ずっと戦ばかりの織田家にいたせいでしょうか。戦がないと武士は手柄を上げることができない、というような考え方にとりつかれていました。
そして、文禄元年(1592年)遂に朝鮮へ出兵します(文禄の役)。これに、小平太も、800人の部下を連れて参加させられています。陣立てでは、八番隊のなかに『服部春安』という名前で残っています。破竹の勢いで、朝鮮の首都漢城(いまのソウル)まで進軍したと伝わっています。しかし、異国の地で、小平太は昔を思い返していたことでしょう。
信長と一緒に無我夢中で戦っていたころ。桶狭間では、誰よりも速く駆け抜けたことなど。だが、これはなんだ。見知らぬ地まできて、朝鮮人たちと戦って、一体なんのための戦なのだ。などと考えていたかもしれません。そして、帰国した後に、また秀吉に振り回されていきます。
豊臣秀次の家臣とされたことが運のツキ?
このころの小平太の上司は豊臣秀次です。子供がいなかった秀吉は、甥の秀次を養子にして、後継者としました。文禄の役の前には、関白に就任させ、家督も譲っています。
秀吉は太閤として依然権力は保持していましたが、朝鮮のことで頭がいっぱい。秀次は内政を任されるようになり、新体制作りを進めていました。しかし、翌年秀吉の嫡子「秀頼」が誕生。
当初、秀吉は秀次の後に秀頼という順で継承していくと言っていました。しかし、その2年後、突然秀次に謀反の疑いがかけられます。今となっては真相は分かりませんが、全くの嘘だったともいわれています。ですが、秀吉は本能寺の変の体験があるので、謀反という言葉だけで拒否反応があります。
しかも、秀頼がいるので、跡継ぎには困らない。結局、秀次がどれほど申し開きしても許してもらえず、切腹させられることになります。そして、家臣の多くも切腹や島流しという処分を受けます。上杉景勝預かりになっていた小平太にも、切腹の命令が下ります。
こんな死に方をするなら、信長様の傍を離れず本能寺で一緒に散りたかった。二条城で、小藤太と毛利と共にでもよかったな。最期は、そんなことを考えていたかもしれません。武士は死に方を大切にするからです。桶狭間で、一番やりという快挙を成し遂げた代償に怪我を負ってしまった。そのせいで、思ったような人生と最期を迎えられなかった、という悲しいお話です。子供達は処分まぬがれ、後に徳川家の家臣となったと伝わっています。
戦国時代ライターしばがきの独り言
よく、服部小平太は華々しいデビューをしたが、その後は伸び悩んだというように記述されます。それは、半分当たっていて、半分違うと感じます。どちらかといえば、スポーツ選手が怪我でつぶれていったというような話に近いでしょう。
小平太の傷は、人から桶狭間での伝説ということで称賛されたかもしれません。ですが、自分の体が思い通りに動かせないというもどかしさは、体が資本の武人の人生に暗い陰を落としたのではないでしょうか。もしかすると、怪我がなければ大大名にでもなっていたかもしれないと思います。
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