キングダムの主人公李信と並ぶ、もう一人の主人公が秦王嬴政、後の始皇帝です。始皇帝は多くの優秀な部下の力と秦の国力でライバルの六国を滅ぼし紀元前221年には史上、誰も成し遂げた事がない中華統一を成し遂げました。
しかし、中華統一後、始皇帝は死の恐怖に囚われ、不老不死の薬と信じられた水銀を摂取して健康を害し紀元前210年、7月に沙丘の平台で崩御したとされています。ですが史記の記述を読むと、どうも始皇帝は毒殺されたのではないかと思えるのです。
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疑問:腐らない筈の死体が腐敗している
kawausoは、始皇帝は水銀中毒で死んだのではないと思います。記録によると、水銀には防腐効果があり、中毒者の死体は冷える事もなく長期間腐らないと言われています。もし始皇帝が水銀中毒ならその遺体は腐らない筈です。
しかし、史記の秦始皇本紀には、
真夏にあたり、聖上の轀(涼)車臭し、すなわち従官に詔して、車毎に一石の魚の干物を載せ、その臭いを乱しせむ
このようにあり、始皇帝の遺体が腐敗して耐えがたい臭いが発生した事を伝えています。つまり、始皇帝は水銀中毒で死んだのではない可能性があるのです。
毒殺者は趙高?
始皇帝は、不老不死の薬を手に入れるのを妨害していると言われた大魚に腹を立て、連弩を使い仕留めた後、平原津で病を得ます。しかし、急死したわけではなく死の影に怯え、家臣が死という言葉を使う事さえ憎んだので周囲は口を閉ざすなど迷惑しました。
ただ、始皇帝は狂っていたわけではなく、もはや死は免れぬと観念し北方にいた公子の扶蘇に咸陽で自分の葬儀を行えと遺言を書いて玉璽を押して封印し寵愛していた宦官の趙高に託しました。
しかし、一刻も早く使者に与えねばならない遺言書を趙高は送らずに手元に留めています。そうこうしている間に7月始皇帝は容態が急変し沙丘で死んでしまうのです。どうして、趙高は遺言書を手元に留めておき、扶蘇の元に送らなかったのでしょうか?
一説には扶蘇は儒教を重視していて、李斯や趙高のような法家の人材を毛嫌いしていたようです。特に焚書坑儒を止めなかった事で扶蘇は、二人を嫌っていたとも言われます。おまけに扶蘇の下には、名門の蒙恬がいて、もし扶蘇が即位すると趙高も李斯も用済みになる可能性がありました。そこで、始皇帝を毒殺して遺言状を破棄し自分が教育係を勤めていた末っ子の胡亥を担ぎ、保身を図ったのです。
始皇帝の世話係の宦官に毒を盛らせた
しかし、いかに趙高が遺言を手元に留めるのも限界があります。始皇帝は、扶蘇からの返事はまだか?と聞いたでしょうし、趙高は出したと言うしかないでしょう。ただ、始皇帝は猜疑心が強い人物なので、いつどこで趙高が遺言を手元に留めている事に気が付くか分かりません。
そこで、切羽詰まった趙高が配下の宦官に命じて毒を盛ったのです。始皇帝は晩年には猜疑心が強くなり、限られた人間にしか会わなかったようで秦始皇本紀には以下のようにあります。
棺は轀涼車中に載せ、縁故の行幸に参加せられたる宦官が参乗し、至る所食を供え、政治の事を奏上する事は普段のままだった。宦者すなわち轀涼車中より奏上を受ける。独り子の胡亥、趙高及び、行幸の随行者の宦官五六人のみ聖上の崩御を知る。
このように、5,6人の宦官が始皇帝に食事を用意し身の回りの世話をしています。そして、その宦官の元締めは趙高でした。彼がその気になれば病床の始皇帝に気づかれずに毒を盛るのは難しくなかったのです。また、宦官は去勢され身内との接触は断たれているので宮殿から出る事はなく、外に情報が漏洩するのを阻止できました。
始皇帝の遺言は口述筆記だった
でも、こうして始皇帝を毒殺しても偽の遺言状が扶蘇にバレる事はないのかという疑問があります。ところが、それもクリアされていました。というのも始皇帝の遺言を書いたのは趙高だからです。再び、秦始皇本紀を引用しますと、、
始皇帝の病益々甚だしく。すなわち璽書を作成し公子扶蘇に賜いて曰く「咸陽に戻りわしを葬れ」
御覧のように、公子扶蘇に賜いて曰くとありますね?
曰くとは、仰るにはという意味で始皇帝は口に出して自分の葬儀は扶蘇にさせろと趙高に言い、その通りに趙高は木簡に文字を書いたのです。目の前で、不仲な扶蘇が後継者に指名され趙高は内心青くなったでしょう。だから、隠密裏に始皇帝を殺して遺言書を書き換える必要があったのです。
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