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この記事の目次
武田勝頼を滅ぼし国持ち大名へ
このように伊勢周辺の実力者として、織田家の宿老として順調に出世していた一益ですが、より大きな仕事が舞い込んでくる事になります。天正8年(1580年)3月、北条氏政は二度目の使者を派遣して織田信長への従属を申し出ます。この時に、佐久間信盛、滝川一益、武井夕庵が関東衆への取次役に命じられ、関東衆の攻略の尖兵としての仕事に従事し始めます。
翌天正9年10月、一益は徳川氏従属国衆の奥平信光に信濃国境への砦構築を命じ、武田勝頼攻略の準備に入りました。天正10年、一益は河尻秀隆と共に武田領に侵攻し、3月11日、甲斐田野(甲州市)で武田勝頼主従の首を獲る事に成功。論功行賞により、上野一国と信濃佐久・小県郡を与えられます。かくして、滝川一益は苦節30年以上で、国持ち大名へと昇進したのです。
東国警固として関東一円に睨みを効かす
滝川一益は、厩橋(前橋市)を拠点に東国警固という任に就きました。これは加賀で柴田勝家が任じられた北国警固と同じで、関東と東北の諸大名に対して、織田政権への服属を呼びかける役割を与えられた事を意味しています。
そればかりではなく一益には、関東や東北方面の大名に対する外交権も与えられました。織田家に服属する大名は、一益を通して織田家に従属するので、軍事統率権すら一益は握る事になります。これにより、関東・東北の大名までが、続々と一益に使者を派遣して、その支配下に入るようになります。
この象徴的な出来事が、北条氏が奪取していた下野小山氏の居城祇園城の返還でした。信長の総無事令(私闘禁止)の元、一益は氏政に圧力を掛け、それに抗しきれなくなった北条氏は祇園城を一益に返却し、それを一益は小山氏に返還したのです。
こうしてみると、一益は信長の威勢を借りて、関東で好き放題にしていたように見えますが、一方で有力な関東諸侯の面子も立て、北条氏が形式的な主君として奉戴していた古河公方、足利義氏とその重臣、梁田氏については、敢えて服属を求める使者を出さないなど、従来の支配勢力に対する配慮も見せています。
本能寺の変での転落
しかし、一益の栄光は本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた事で一気に転落に向かいます。東国警固の力は信長政権の盤石さがないと維持できない不安定なものでした。
一益は、信長横死を一部の関東の有力大名以外には秘密にしつつ、国衆の離反を阻止しようとしますが、手の平を返した北条氏直に神流川の戦いで敗北、領国放棄を決意します。
この際に、佐久、小県国衆から人質を取り直して帰路の安全を計ろうとしますが、信濃国衆の木曾義昌に足止めを喰らい、取った人質を返還。やっと木曾領を通してもらえますが、この頃には、清須会議はすでに終わっていました。
滝川一益は、その後の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家についている事から清須会議に間に合えば、柴田勝家に有利な行動をしたと考えがちですが、信長に守るように命じられた東国警固には失敗し、上野や佐久、小県まで失い北伊勢五郡しか所有していない一益に政治的な発言力はなく、仮に間に合っても役には立たなかったでしょう。
清須会議後に剃髪隠居
落ち目になった一益の行動はどんどん裏目に出ます。清洲会議後、織田信孝を後援する柴田勝家と羽柴秀吉の対立では、一益は、元々は織田信雄の補佐役でしたが、ここでは柴田勝家に付き、北伊勢の諸城を攻略を担当します。
一益は奮闘し、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにして頑張りますが、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れて自決、織田信孝も自害したことで一益は孤立。
それでも一益は長島城で籠城して孤軍奮闘しますが7月には秀吉に降伏してしまいます。
これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居しました。その後、北伊勢五郡は織田信雄のものになります。
小牧長久手で奮戦するも援軍を待てず敗北
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは一益は秀吉方につき、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略し伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。過去に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、更に、下市場城、前田城を占拠します。
当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点であり、一益久々大手柄のよ・か・んでしたが、大野城の攻略は失敗。巻き返した家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されました。
羽柴秀吉は、一益救援に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集め7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していた模様で、ここが踏ん張りどころと、一益は半月以上粘ったものの、援軍到着まで待てず、7月3日に力尽きて開城。さらに、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ一益は死ぬ思いで北伊勢に逃れる散々な目に遭います。
7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられ、無一文だけは辛うじて免れます。しかし、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられる事になりました。
以後は戦働きは無くなり、織田信雄との和睦交渉に参加した後、北条氏との調停をしつつ、天正14年に62歳で病死しました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
長い下積み経験を経て、北伊勢攻略から着々と手柄を積み重ね、ついには関東管領クラスの大きな権力を握った滝川一益ですが、本能寺の変が全てをふいにしました。佐々成政同様に、明智光秀に人生を狂わされた一人と言えるでしょう。
おまけに清須会議後には、羽柴秀吉を軽んじて柴田勝家につき、全ての所領を失い、剃髪して隠居に追い込まれますが、次の小牧・長久手では敗れはしたものの、秀吉から所領3千石を得て、何とか没落して惨めに死す事だけは回避できました。でも、かつての東国警固の輝きに比べると、没落したという印象が否めないですね。
参考文献:歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌
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