鎌倉時代から薩摩に土着し、戦国最強の呼び声高く幕末維新でも官軍の主力として討幕を成し遂げた島津。そのパーフェクトぶりから島津に暗君なしと言われますが、一体どんな理由で島津には暗君が出なかったのでしょうか?
今回は島津に暗君なしの理由ベスト5について発表したいと思います。
この記事の目次
其の一:戦国と幕末に偉大な指導者を輩出
島津に暗君なしという言葉で引合いに出されるのは、重要な時期に名君が出たという事でしょう。
室町時代には守護の島津氏は弱体化し、薩州島津、相州島津、豊州島津、伊作島津等に分裂していたのですが、伊作島津から島津忠良(日新斎)が出て島津氏の統一事業に取り組みます。
さらに、忠良の子の島津貴久には、島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久の島津4兄弟が生まれ、いずれ劣らぬ名将として九州統一の原動力になりました。
また、幕末には幕末四賢侯筆頭の島津斉彬、さらに斉彬の異母弟、島津久光が出ていますし、斉彬の門下からは西郷隆盛が、久光の下からは大久保利通や小松帯刀が出て、維新回天の大業を担う事になります。
戦国、幕末と絵に描いたように人材が出てきて、これだけで島津に暗君なしを説明できそうですが、今回は、それ以外の部分からも島津に暗君なしを考えてみます。
其の二:日本の南端で外の侵略を受けにくい
島津氏の領地である薩摩・大隅は日本の最南端であり、非常に攻めにくい最果ての土地でした。実際に島津氏を武力で屈服させたのは豊臣秀吉だけで、その後を受けた徳川家康は島津氏が関ケ原で西軍についたにも関わらず、領地を削るという事はしていません。
それをやった場合、再び島津氏が叛く可能性があり、家康はまた九州征伐の軍を興す必要に迫られますし、その間に東国で叛かれでもしたら、また乱世になります。
こうして考えると、討伐するより勢力を温存させて恩を売るのが得策だったのでしょう。島津氏が九州ではなく関東にでもあれば、そうはならず、どこかで亡国の憂き目にあったかも知れません。やはり九州の果てにあったのは他国人の支配を受けないという意味で名君が続出する下地になったと言えるでしょう。
其の三:琉球・奄美を介して海外と繋がり貿易も盛ん
島津氏は、琉球や奄美を通じて海外と繋がれる位置にありました。鉄砲伝来も領地の種子島からであり、戦国期を通じて島津氏の鉄砲装備率は全国一だったようで、関ケ原から退却する時にも鉄砲の装備率の高さが敵の追撃を振り切るのに役立ちました。ただ、薩摩隼人だから勇猛だけの理由ではないのです。
また、琉球征服を通して島津は黒糖を上納させており奄美からの黒糖も合わせて、膨れ上がった借財を減らすのに役立ち、鎖国していない琉球を通じ西洋や清国の事情も知る事が出来ました。
西洋列強の侵略も、文政7年(1824年)トカラ列島の宝島にイギリスの捕鯨船が漂着し牛肉を寄こせ寄こさないで小規模ながら銃撃戦にまで発展して経験しています。
※奇しくも同年5月には、常陸国大津浜にもイギリス人が上陸し水戸藩では攘夷論が起きています。
このように島津氏は、泰平に眠りこけるには海外情報が近く蘭癖大名も誕生し西洋の進んで技術を取り入れるのにも積極的になりました。
其の四:血統の補完システムがあった
どれほどの名家でも、藩主が早世する事によりお家断絶の危機が訪れます。島津氏は、この不意の家の断絶に対応する為に4代藩主の島津吉貴・5代藩主島津継豊の時代に、越前家(重富島津家)今泉島津家を分家として興させます。それ以前から島津氏には、加治木島津家と垂水島津家がありましたので、こうして都合4家が島津本家に世継ぎが出ない時に備える事になります。
この血統の補完システムは、6代藩主の島津宗信が22歳の若さで没した時に威力を発揮し、加治木島津家を継いでいた弟の島津重年が7代藩主を継ぎ、その息子が8代藩主で蘭癖大名の島津重豪です。
また、今泉島津家からは、13代将軍徳川家定の正室になる篤姫が出て、斉彬の養女として近衛家から将軍家に嫁ぎ、島津氏の幕末の動きに影響を与えています。結局、島津重豪の血筋から斉彬も久光も出るわけですから、血統の補完システムを産み出した島津氏は先見の明がありました。
【次のページに続きます】