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この記事の目次
乏しい国力から北伐軍を繰り出す孔明の胸中を知る趙雲
三国志の時代は戦乱で人口が激減し気候も寒冷化が進み、物資の価値は今より遥かに高い時代でした。庶民は腹一杯食べるという事が出来ない時代だったのです。
そんな中で三国とも大規模な遠征をしているので、常に国庫は火の車であり、三国でもっとも小さく経済も弱い蜀は、丞相諸葛亮が、あの手この手で財源を確保し、貧しい庶民から搾り上げた重税で戦い続けていました。
兵は食糧がないと戦えませんから、物資を守るのは命を守るのと同じくらい価値があったのです。趙雲は、蜀の寒いお財布事情をそれをよく分かっていて、蜀が乏しい物資を少しでも保存できるように困難な退却戦をやりつつ、物資の保全まで気を配ったのです。命懸けで戦いながら、ここまで考えるというのは、ちょっと出来ないですよね。
名将は敵の輜重を逃がさない
三国志の時代の優れた将軍は糧食を敵に拠るという事を積極的にしました。特に本国から遠く離れて、兵站も脆弱になる遠征行軍だと、いかに手持ちの食糧を減らさず敵から奪うか?というケチケチ行動が、戦争継続能力を左右したからです。
しかし、土地の民衆から物資を徴収すると恨まれるので、主に敵を破りその軍需物資を奪い取る事を重視していて、名将夏侯淵の記録には敵の輜重を奪ったという記述が何度も出てきますし、補給を継続させる事についても三国志の登場人物の中で随一に上手でした。
もちろん曹真も歴戦の名将なので、軍需物資を蜀から取り上げようとした事でしょう。趙雲はそれを阻止したのであって、人員の減少を抑えたのみならず経済的にも蜀に大きな貢献をしたのです。
経済を重視していたらしい趙雲
趙雲別伝には、もう一つ趙雲の経済観念についての記述があります。劉備が益州を領有した時、成都内の住宅や城外の庭園や桑田を皆んなで山分けしようという意見が持ち上がりました。
いかにも戦勝者意識丸だしの行為ですが、趙雲は反対し、田圃も住宅も桑畑も蜀の人民に無条件で返すべきであり、そうする事で被災した人々を労り、生活を安定させて勤労意欲を高めさせ、納税してもらう方が目先の利益よりも遥かに大きいと主張し、劉備は趙雲の意見を採用し、山分けを思い止まったのです。
山賊みたいな暮らしで刹那、刹那にしか目がいかない人が多い劉備軍で、趙雲は先の事を考えて富を生み出してくれる人民を保護する経済感覚が備わっていました。
三国志ライターkawausoの独り言
趙雲の戦いには、長年戦場を往来してきた経験に裏打ちされた隠れた功績が眠っています。
三国志の時代には、自己PRが上手い起業型将軍が多く、趙雲のような地味にやるべき事をするサラリーマン将軍の功績は、取り上げてくれる上司や同僚や部下がいない限りは、どうしても闇に葬られてしまいがちです。
その意味で趙雲は、劉備や諸葛亮のような理解者を持った分は幸運だったと言えますね。
※参考文献:正史三国志 趙雲別伝
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趙雲(ちょううん)・年表
所属:蜀(しょく)
姓名:趙雲(ちょう うん)
字:子龍(しりゅう)
出身地:冀州常山郡真定県(じょうざんぐんしんていけん)
生没年:? - 229年
関連年表:
200年:劉備と合流し配下となる
208年:長坂の戦いで幼い劉禅「阿斗」を救出し牙門将軍に昇進
210年:荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守
215年:益州平定
219年:漢中平定
223年:劉禅の即位に伴い中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられる
228年:第一次北伐に参加、撤退する軍の殿を務める。鎮軍将軍に降格
229年:死去(子の趙統が後を継ぐ)