三好長慶の生涯について解説します。戦国時代で最初に天下を取った武将として一般的には織田信長の名前が登場します。しかしその前に十数年間、室町幕府を実効支配し、事実上の天下人だったのが長慶。ここではそんな長慶の生涯を追いかけながらその業績、歴史の流れを解説します。
この記事の目次
三好家のおこりと祖父による幕府への介入まで
三好長慶を生み出した三好氏をさかのぼると、源義光を祖とする甲斐源氏です。やがてそこから加賀美氏・小笠原氏と分岐。さらに阿波小笠原氏が南北朝時代の頃に阿波三好郡の所領を得て、三好氏となります。当初は阿波国にある小さな領主に過ぎない三好氏でしたが、3代目の三好之長(みよしゆきなが)の時代に大きく動きがあります。三好氏は当時阿波国の守護・細川讃州家当主・細川成之の家臣でした。1467(応仁元)年に、応仁の乱が勃発。東軍の総大将、細川宗家・京兆家当主の細川勝元の要請により、成之と共に之長も出陣。初めて畿内・京の都に軍をすすめました。之長の主君は成之のあと、子の義春、さらにその子の長男之持と継いでいきます。之持の弟・澄元は、子のいない京兆家当主・政元の跡を継ぐことになりました。之長もそれに従い、京兆家の家臣になります。しかし澄元を養子にした政元は、細川高国らほかの養子も迎えていました。1507(永正4)年に政元が暗殺されたのち、後継者争いの抗争に発展します。両細川の乱が勃発。高国に敗れた澄元・之長は一旦阿波に敗走。2年後に奪回を試みて11代将軍足利義澄と共に堺に上陸。一時は高国を追い払うも、10代将軍足利義稙と共に逆襲に応じた高国に敗れ去り、ここで之長は処刑されてしまいます。
堺幕府を画策し挫折した父の跡を継ぐまで
1520(永正17)年に之長を失った三好家は、之長の子(孫との説もあり)の元長が継ぎます。これは長慶の父。自らの一存で将軍を12代足利義晴に継がせるなど、独裁政権を樹立していた高国への反撃の機会をうかがっていました。ちなみに長慶は、その間の1522(大永2)年に三好の本拠地(徳島県三好市)にて誕生しています。1526(大永6)年に高国の独裁に陰りが見えたときに元長は挙兵。将軍・義晴の兄弟・義維と共に宿敵・高国と激突しました。そしてついにこれを退けます。ここで高国に代り、義維の後見人として堺に幕府政権を樹立(堺公方)。しばらく高国側との抗争が続きますが、1531(享六4)年についに高国が壊滅します。一連の戦いには細川澄元の子・晴元も参加していましたが、高国亡き後、元長との間に溝ができてしまいました。そして義晴側についた晴元にとって元長は危険な存在とみなされてしまいます。そんな折、元長は晴元側についていた木沢長政を畠山義堯と共に包囲します。ところがここで一向一揆が勃発。これは晴元が山科本願寺と結託して反乱をけしかけたのです。そして義堯は自害。元長は一向一揆の手により殺害されます。
一向宗との戦いと和睦、そして晴元に帰参
三好長慶の幼名は千熊丸。父・元長には長慶のほか実休、安宅冬康、十河一存といった子を儲け、彼らがその後の三好一族にとって重要な戦力になりました。長慶10歳のときに父・元長は一向一揆により自害。当時長慶たちや母も堺にいましたが、来襲の前に阿波に退避していて難を逃れます。浄土真宗系である一向宗は、敵対していた日蓮系法華宗の庇護を元長がしていたので、仏敵と見なして容赦なく殺害したのです。そしてそのまま暴走化しました。黒幕の晴元は抑えきれず、大元の本願寺から出された静止命令も無視します。このことがついに晴元と本願寺の対立に発展。そこでまだ元服も済んでいない、元長の子・千熊丸が和睦のあっせんに乗り出します。その模様が「本福寺明宗跡書」にも記載。しかし一説には名前だけでその準備はほかのものが行った可能性もあります。これは1533(天文2)年6月のことで直後に長慶は元服しました。その後講和を無視して暴徒化した一向宗と戦い、摂津越水城を奪回。さらに晴元軍とも戦います。その後河内守護代木沢長政の仲介などもあり、和解し晴元に帰参。以降は晴元の家臣として働きます。
晴元に従いながら、本願寺も一目置くほどまでに勢力拡大
長慶は室町幕府のナンバー2・管領の晴元に付き従う一方で、勢力拡大を図ります。1539(天文8)年、河内十七カ所代官職の地位を狙った長慶は、晴元がその要望を聞き入れないと、直接幕府に訴えます。しかしこれに関する和睦案が出されたものの、長慶は聞き入れません。ここで2500の兵を引き連れていた長慶は、本願寺の後ろ盾を得て京に攻め入り、晴元を追い出します。晴元が反撃のための出兵要請と和睦に向けた工作をしている最中、長慶は将軍・義晴から直接京都の治安維持を命じられます。その間、同じ三好一族ながらも父とともに対立していた三好政長と京都で戦闘を行いました。ここで六角や武田といった大名の介入を怖れた長慶は、和睦を受け入れ、河内十七カ所代官職こそ手に入れられなかったものの、摂津守護代の地位に就きます。そして長慶は西宮にある摂津越水城に入り、以降阿波に戻ること無く摂津を本拠地として勢力を拡大。
1540(天文9)年には丹波の波多野稙通の娘を妻に迎えます。晴元は高国系の武将への攻撃を命じてそれに従ったり、晴元に反逆した木沢長政を攻め滅ぼしたりします。一連の戦いにより長慶の名声は機内に知れ渡るようになり、本願寺も一目置く存在になっていきます。
父からの宿敵・政長を打ち取り、晴元を追放。三好政権を樹立
長慶の活躍と勢力拡大は、やがて主君である晴元との対立を生みます。きっかけは1548(天文17)年。父からの因縁の相手・三好政長を打ち取ろうと動きます。政長は晴元から絶大な信任がありました。そのため長慶は晴元との対決も覚悟します。晴元に三好政長父子の追討を願い出るも聞き入られず、ここに長慶は晴元と決裂。それまで対立していた高国の養子・細川氏綱や遊佐長教と結託します。そして河内十七箇所へ兵を差し向け政長の子、政勝を包囲。そこで長慶を謀反人とした晴元は政長と共に反撃にでます。晴元が茨木市にあった三宅城、政長は大阪市東淀川区に存在した江口城に布陣し、近江の六角氏の援軍を待ちます。しかし長慶の動きは早く、江口城へ運ばれる物資の道を封鎖。さらに弟の十河一存、安宅冬康ら弟の活躍もあって、六角が到着する前に、江口城にいた政長らを打ち取ってしまいます。晴元・政勝は近江に逃れ、長慶は晴元に代る管領として氏綱を京に迎えいれました。そして晴元派の伊丹親興の伊丹城を開城させ、晴元政権は崩壊。ここで表向きは義晴・氏綱の家臣としながらも、実質的に幕府の全権を握った長慶が三好政権を樹立します。
将軍家との確執と長慶の暗殺未遂
長慶が京にいる間、将軍義晴は近江に逃亡。失意のうちにその地で没します。その子足利義輝は、晴元ともに義晴が築いた中尾城に籠ります。しかし長慶との戦闘で敗退しさらに奥にある堅田に撤退。長慶の和睦には応じず。将軍不在のまま長慶が京の治安を維持していました。その間京に住む公家や寺社たちに安心させるよう、彼らの所領を保護しています。そんな長慶が京を支配していた、1551(天文20)年には、長慶を脅かす事件が起こります。それは長慶の暗殺未遂。一回目は3月に幕臣・伊勢貞孝の招きに応じて貞孝の自邸で饗宴を受け、その返礼として吉祥院に招くのですが、そこで放火事件が発生します。犯人である少年はすぐに捕まりますが、調べると共犯者がいることが判明。事件は計画的に行われていたことがわかります。その後、再び貞孝に招待された長慶。能を鑑賞していましたが、その場に潜入した進士賢光が突然長慶に切りつけます。しかし長慶は軽傷で済み、賢光はその場で自害。後に将軍義輝が黒幕と伝わる事件でした。同時に長慶の岳父である遊佐長教も僧侶により暗殺されます。この不穏な動きを好機と見た三好政勝・香西元成を主力とした義輝・晴元軍が3000の兵を持って京に侵入します。
将軍家との一時的な和睦と反発
この動きに長慶は家臣・松永久秀兄弟に命じて4万の軍で迎撃します。相国寺の戦いが繰り広げられ、圧倒的な兵力の差で長慶側が勝利します。六角義賢が交渉に応じ、晴元が氏綱に家督を譲り、出家しその子・昭元を取り立てることと、将軍義輝の上洛という条件で折り合いが付き和睦は成立しました。そして1552(天文21)年に、義輝が上洛。しかし晴元はあきらめずに再びことを起こします。長慶は娶っていた妻と、1548(天文17)年に離別していたのですが、そのこともあって三好と対立を深めていたのが、元妻の実家・波多野晴通。彼が晴元に加担します。長慶は迎え撃とうとしますが、ここで従軍していた芥川孫十郎が寝返ってしまいます。そのため長慶は一旦越水城に撤退。しかし10月には丹波を攻撃。翌年には義輝直属の奉公衆の中に晴元と通じた者が現れます。そのため長慶は彼らと和議を結び、家族を人質に取ります。こうして晴元のいる丹波を攻撃中に、今度は義輝が和約を破棄して抵抗します。孫十郎も同様に反乱。半長慶包囲網の状況になりますが、家臣の松永久秀らの活躍により、晴元側の武将たちを駆逐。義輝は近江の朽木に逃げます。ここで長慶は将軍に供する者の知行(領地)を没収すると宣言。その結果、多くが義輝を見捨てます。
畿内の実効支配で戦国時代最初の天下人に
義輝が朽木に逃亡する期間は5年間。長慶は芥川山城を攻め落とし、今度はそこを拠点にしてより京の近くに構えます。そして京を実効支配しながら、長慶が幕府の将軍に代って近隣への遠征や書状を発給。事実上の天下人として活動していました。1558(永禄元)年。5年ぶりに義輝は、細川晴元、三好正勝、香西元成といった面々を従えて京の奪還を図ります。この北白川の戦いでは、義輝側が戦略的に有利な場面もありましたが、長慶が逆襲。その後長慶の弟たちが四国から軍勢を引き連れて堺に上陸したことから、義輝を後援する六角義賢が和睦をすすめて成立。晴元は姿を消すも義輝は上洛します。そして長慶は義輝を歓待し、幕府との修復を図ります。この頃からが長慶の全盛期となり、摂津をはじめ山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に加えて伊賀・河内、そして若狭にも影響力を持つ大勢力。戦国時代で最初に天下を取った大名と言えます。しかし戦乱が絶えることなく、河内の守護代安見宗房が守護の畠山高政を追放したため長慶は兵を進めます。一旦は根来衆の抵抗に遭いますが、これを制圧。宗房を追放し、高政は守護に戻ります。このタイミングで久秀は大和の制圧を開始。信貴山城を拠点としました。
全盛時に飯盛山へ移動
京都の幕府を実質的に支配していた三好一族。1559(永禄2)年に長慶の嫡男・慶興が将軍義輝から「義」の名を賜り、三好義興を名乗ります。翌1560(永禄3)年に、長慶は修理大夫、義興は筑前守となりました。さらに正親町天皇の即位式の警護についても長慶が務め上げ、天皇家への献金も行います。そして長慶は芥川山城から飯盛山城に拠点を移し、芥山山城は義興に譲りました。長慶は大和国への制圧をもくろんでおり、飯盛山城の方が有利と判断したためです。さらに京都にも大阪平野にも近い最高の立地。堺にも近く、三好の本拠地四国との連絡も円滑でした。しかし同じ年、河内の守護・畠山高政が安見宗房を守護代として復帰させてしまいます。その行為に激怒した長慶は畠山軍との戦闘を開始し、それを制圧。河内も長慶の手に落ち、弟の実休に与えました。そして大和北部も制圧。松永久秀に統治を委ねます。翌1561(永禄4)年には、将軍・義輝を長慶の屋敷に迎え(呼びつけ)、その実力を内外に示します。さらに5月には最後まで抵抗していた細川晴元とも和睦。ちなみに晴元は摂津の普門寺城に幽閉され、その2年後に没します。義興は従四位下・御相判衆に昇任。このとき長慶の支配したのは畿内10カ国となり、近隣の戦国大名が長慶に誼を通じるなど、絶頂期を謳歌しました。
身内の度重なる死による衰退のはじまり
しかし圧倒的な権勢を誇った長慶も、ピークを過ぎるときがやってきました。手始めは1561年(永禄4年)4月。弟の十河一存が急死します。和泉国・岸和田に拠点を持っていた一存でしたが、この事で和泉の国が手薄になったのをいいことに、反長慶派の残党・畠山高政と六角義賢が細川晴元の次男・晴之を押し立て反乱を起こします。1年近く行われた反乱は翌年、三好実休を戦死に陥れました。しかし三好義興は松永久秀とともに反撃し、畠山軍に大勝。高政は再度追放され、六角は和睦して撤退します。しかしこの戦いに長慶が出陣した形跡がありません。一節には病に伏したとも伝わります。いずれにしろ以降の戦いは嫡男・義興が前面に出て戦いました。根来衆や奈良・桜井にある寺院・多武峯宗徒との衝突など、三好勢を悩ませる戦乱が相次ぎます。三好の力は絶大でしたが、家格が上昇しているとはいえ「分不相応」という意見も多く、特に表向き長慶に従っていた将軍義輝がこれらの反乱の黒幕とも。しかし長慶にとって最も辛いことがおきたのが1563(永禄6)年の8月です。後継者として戦の表舞台で活躍していた嫡男・義興が突然病死しました。武芸はもちろん教養人としても認められ、義輝や公家たちからも信望が厚い若干22歳の若者は6月に突然発病し、その2か月後にこの世を去ってしまうのです。
松永久秀の讒言?で失ったもの
長慶の権勢を支えていた三好一族。弟そして大切な息子を失い、長慶の気力は一気に萎えてしまいました。その後、長慶の後継者として甥にあたる十河一存の子・義継を指名。本来は三好ではない分家筋でしたが、生母が摂関家で関白を務めた、九条稙通の娘というのが選ばれた大きな理由です。義継は1564(永禄7)年に上洛し、公家衆や将軍義輝に謁見。家督相続の許しを得ました。しかしその場に長慶はおりません。この頃には病状は相当重くなっており、飯盛山城に籠ったままです。さらに直接的な名目上の主君、管領・細川氏綱も前年12月にこの世を去っていました。そして長慶にとってさらなる悲劇が訪れます。1564(永禄7)年5月、長慶は最後まで残っていた弟の安宅冬康を呼び出しました。ところがあろうことかここで弟を誅殺。
これは一般的に長慶・義興親子に仕えた松永久秀による讒言と伝えられます。戦国時代の三大梟雄のひとりとして野心の高さが伝わる久秀。しかし後の研究ではその評価に疑問がもたれています。当時の長慶は病により常軌を逸していたとの記録もあり、すでに思慮を失っていてとっさの行動とも言われています。後に長慶は弟を殺めたことをさらに後悔し、病がさらに重くなりました。
文化人としても名高い長慶の最期とその後
最盛期から一転衰退。有能な弟を次々と失い、さらに期待の息子も亡くし、病床に就いていた三好長慶にはもう死へのカウントダウンが始まっていました。京都への挨拶を終えると、すぐに飯盛山城に嗣子の義継が入り、その11日後の1564(永禄7)年7月4日に長慶は飯盛山で病死。43歳でした。長慶は教養ある文化人として知られており、京で勢力を保っていたときには、朝廷との関係を重視。連歌会を頻繁に開きました。また日常から正しい正座を行っていたために模範にしたものも多くいます。
またキリスト教への理解力もあり、自らキリシタンにはならなかったものの、キリシタンの布教活動には寛容でした。そんな長慶は旧体制の面と新しい面を併せ持っていた人物で、戦国の一時期に天下人だったことは間違いありません。長慶死後は三好一族(三人衆)や松永久秀が当主・義継を支えて、将軍義輝を殺害。しかし後継将軍については内輪揉めが起こり、久秀は反目。14代将軍足利義栄擁立に3年かかります。
そして義輝の弟・義昭は織田信長を頼り、信長は上洛作戦を開始、義継ら三好三人衆を追放し義昭を15代将軍に据えます。以降も三人衆は四国を拠点に本願寺や浅井・朝倉らと手を組み信長と対決。しかし信長の前に敗れ去り、天正元年に義継は戦死。また天正年間には三好三人衆の活動も終焉を迎えました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
三好長慶は、信長が登場する前の天下人としてその名前が知られつつあります。ただ信長のように将軍を追放して室町幕府を終焉させず、表向きは将軍とナンバー2だった管領を立てていたので、よりわかりにくかったのかもしれません。そして京の保守勢力からは「成り上がり」ということで幾度となく反乱があり、その都度抑えていました。ただ弟や息子が予想以上に早く亡くなったのが長慶の不幸。もし彼らが生きていたら長慶の三好政権が全盛期のまま信長と決戦をしていたかもしれません。
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