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この記事の目次
父からの宿敵・政長を打ち取り、晴元を追放。三好政権を樹立
長慶の活躍と勢力拡大は、やがて主君である晴元との対立を生みます。きっかけは1548(天文17)年。父からの因縁の相手・三好政長を打ち取ろうと動きます。政長は晴元から絶大な信任がありました。そのため長慶は晴元との対決も覚悟します。晴元に三好政長父子の追討を願い出るも聞き入られず、ここに長慶は晴元と決裂。それまで対立していた高国の養子・細川氏綱や遊佐長教と結託します。そして河内十七箇所へ兵を差し向け政長の子、政勝を包囲。そこで長慶を謀反人とした晴元は政長と共に反撃にでます。晴元が茨木市にあった三宅城、政長は大阪市東淀川区に存在した江口城に布陣し、近江の六角氏の援軍を待ちます。しかし長慶の動きは早く、江口城へ運ばれる物資の道を封鎖。さらに弟の十河一存、安宅冬康ら弟の活躍もあって、六角が到着する前に、江口城にいた政長らを打ち取ってしまいます。晴元・政勝は近江に逃れ、長慶は晴元に代る管領として氏綱を京に迎えいれました。そして晴元派の伊丹親興の伊丹城を開城させ、晴元政権は崩壊。ここで表向きは義晴・氏綱の家臣としながらも、実質的に幕府の全権を握った長慶が三好政権を樹立します。
将軍家との確執と長慶の暗殺未遂
長慶が京にいる間、将軍義晴は近江に逃亡。失意のうちにその地で没します。その子足利義輝は、晴元ともに義晴が築いた中尾城に籠ります。しかし長慶との戦闘で敗退しさらに奥にある堅田に撤退。長慶の和睦には応じず。将軍不在のまま長慶が京の治安を維持していました。その間京に住む公家や寺社たちに安心させるよう、彼らの所領を保護しています。そんな長慶が京を支配していた、1551(天文20)年には、長慶を脅かす事件が起こります。それは長慶の暗殺未遂。一回目は3月に幕臣・伊勢貞孝の招きに応じて貞孝の自邸で饗宴を受け、その返礼として吉祥院に招くのですが、そこで放火事件が発生します。犯人である少年はすぐに捕まりますが、調べると共犯者がいることが判明。事件は計画的に行われていたことがわかります。その後、再び貞孝に招待された長慶。能を鑑賞していましたが、その場に潜入した進士賢光が突然長慶に切りつけます。しかし長慶は軽傷で済み、賢光はその場で自害。後に将軍義輝が黒幕と伝わる事件でした。同時に長慶の岳父である遊佐長教も僧侶により暗殺されます。この不穏な動きを好機と見た三好政勝・香西元成を主力とした義輝・晴元軍が3000の兵を持って京に侵入します。
将軍家との一時的な和睦と反発
この動きに長慶は家臣・松永久秀兄弟に命じて4万の軍で迎撃します。相国寺の戦いが繰り広げられ、圧倒的な兵力の差で長慶側が勝利します。六角義賢が交渉に応じ、晴元が氏綱に家督を譲り、出家しその子・昭元を取り立てることと、将軍義輝の上洛という条件で折り合いが付き和睦は成立しました。そして1552(天文21)年に、義輝が上洛。しかし晴元はあきらめずに再びことを起こします。長慶は娶っていた妻と、1548(天文17)年に離別していたのですが、そのこともあって三好と対立を深めていたのが、元妻の実家・波多野晴通。彼が晴元に加担します。長慶は迎え撃とうとしますが、ここで従軍していた芥川孫十郎が寝返ってしまいます。そのため長慶は一旦越水城に撤退。しかし10月には丹波を攻撃。翌年には義輝直属の奉公衆の中に晴元と通じた者が現れます。そのため長慶は彼らと和議を結び、家族を人質に取ります。こうして晴元のいる丹波を攻撃中に、今度は義輝が和約を破棄して抵抗します。孫十郎も同様に反乱。半長慶包囲網の状況になりますが、家臣の松永久秀らの活躍により、晴元側の武将たちを駆逐。義輝は近江の朽木に逃げます。ここで長慶は将軍に供する者の知行(領地)を没収すると宣言。その結果、多くが義輝を見捨てます。
畿内の実効支配で戦国時代最初の天下人に
義輝が朽木に逃亡する期間は5年間。長慶は芥川山城を攻め落とし、今度はそこを拠点にしてより京の近くに構えます。そして京を実効支配しながら、長慶が幕府の将軍に代って近隣への遠征や書状を発給。事実上の天下人として活動していました。1558(永禄元)年。5年ぶりに義輝は、細川晴元、三好正勝、香西元成といった面々を従えて京の奪還を図ります。この北白川の戦いでは、義輝側が戦略的に有利な場面もありましたが、長慶が逆襲。その後長慶の弟たちが四国から軍勢を引き連れて堺に上陸したことから、義輝を後援する六角義賢が和睦をすすめて成立。晴元は姿を消すも義輝は上洛します。そして長慶は義輝を歓待し、幕府との修復を図ります。この頃からが長慶の全盛期となり、摂津をはじめ山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨に加えて伊賀・河内、そして若狭にも影響力を持つ大勢力。戦国時代で最初に天下を取った大名と言えます。しかし戦乱が絶えることなく、河内の守護代安見宗房が守護の畠山高政を追放したため長慶は兵を進めます。一旦は根来衆の抵抗に遭いますが、これを制圧。宗房を追放し、高政は守護に戻ります。このタイミングで久秀は大和の制圧を開始。信貴山城を拠点としました。
全盛時に飯盛山へ移動
京都の幕府を実質的に支配していた三好一族。1559(永禄2)年に長慶の嫡男・慶興が将軍義輝から「義」の名を賜り、三好義興を名乗ります。翌1560(永禄3)年に、長慶は修理大夫、義興は筑前守となりました。さらに正親町天皇の即位式の警護についても長慶が務め上げ、天皇家への献金も行います。そして長慶は芥川山城から飯盛山城に拠点を移し、芥山山城は義興に譲りました。長慶は大和国への制圧をもくろんでおり、飯盛山城の方が有利と判断したためです。さらに京都にも大阪平野にも近い最高の立地。堺にも近く、三好の本拠地四国との連絡も円滑でした。しかし同じ年、河内の守護・畠山高政が安見宗房を守護代として復帰させてしまいます。その行為に激怒した長慶は畠山軍との戦闘を開始し、それを制圧。河内も長慶の手に落ち、弟の実休に与えました。そして大和北部も制圧。松永久秀に統治を委ねます。翌1561(永禄4)年には、将軍・義輝を長慶の屋敷に迎え(呼びつけ)、その実力を内外に示します。さらに5月には最後まで抵抗していた細川晴元とも和睦。ちなみに晴元は摂津の普門寺城に幽閉され、その2年後に没します。義興は従四位下・御相判衆に昇任。このとき長慶の支配したのは畿内10カ国となり、近隣の戦国大名が長慶に誼を通じるなど、絶頂期を謳歌しました。
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