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この記事の目次
身内の度重なる死による衰退のはじまり
しかし圧倒的な権勢を誇った長慶も、ピークを過ぎるときがやってきました。手始めは1561年(永禄4年)4月。弟の十河一存が急死します。和泉国・岸和田に拠点を持っていた一存でしたが、この事で和泉の国が手薄になったのをいいことに、反長慶派の残党・畠山高政と六角義賢が細川晴元の次男・晴之を押し立て反乱を起こします。1年近く行われた反乱は翌年、三好実休を戦死に陥れました。しかし三好義興は松永久秀とともに反撃し、畠山軍に大勝。高政は再度追放され、六角は和睦して撤退します。しかしこの戦いに長慶が出陣した形跡がありません。一節には病に伏したとも伝わります。いずれにしろ以降の戦いは嫡男・義興が前面に出て戦いました。根来衆や奈良・桜井にある寺院・多武峯宗徒との衝突など、三好勢を悩ませる戦乱が相次ぎます。三好の力は絶大でしたが、家格が上昇しているとはいえ「分不相応」という意見も多く、特に表向き長慶に従っていた将軍義輝がこれらの反乱の黒幕とも。しかし長慶にとって最も辛いことがおきたのが1563(永禄6)年の8月です。後継者として戦の表舞台で活躍していた嫡男・義興が突然病死しました。武芸はもちろん教養人としても認められ、義輝や公家たちからも信望が厚い若干22歳の若者は6月に突然発病し、その2か月後にこの世を去ってしまうのです。
松永久秀の讒言?で失ったもの
長慶の権勢を支えていた三好一族。弟そして大切な息子を失い、長慶の気力は一気に萎えてしまいました。その後、長慶の後継者として甥にあたる十河一存の子・義継を指名。本来は三好ではない分家筋でしたが、生母が摂関家で関白を務めた、九条稙通の娘というのが選ばれた大きな理由です。義継は1564(永禄7)年に上洛し、公家衆や将軍義輝に謁見。家督相続の許しを得ました。しかしその場に長慶はおりません。この頃には病状は相当重くなっており、飯盛山城に籠ったままです。さらに直接的な名目上の主君、管領・細川氏綱も前年12月にこの世を去っていました。そして長慶にとってさらなる悲劇が訪れます。1564(永禄7)年5月、長慶は最後まで残っていた弟の安宅冬康を呼び出しました。ところがあろうことかここで弟を誅殺。
これは一般的に長慶・義興親子に仕えた松永久秀による讒言と伝えられます。戦国時代の三大梟雄のひとりとして野心の高さが伝わる久秀。しかし後の研究ではその評価に疑問がもたれています。当時の長慶は病により常軌を逸していたとの記録もあり、すでに思慮を失っていてとっさの行動とも言われています。後に長慶は弟を殺めたことをさらに後悔し、病がさらに重くなりました。
文化人としても名高い長慶の最期とその後
最盛期から一転衰退。有能な弟を次々と失い、さらに期待の息子も亡くし、病床に就いていた三好長慶にはもう死へのカウントダウンが始まっていました。京都への挨拶を終えると、すぐに飯盛山城に嗣子の義継が入り、その11日後の1564(永禄7)年7月4日に長慶は飯盛山で病死。43歳でした。長慶は教養ある文化人として知られており、京で勢力を保っていたときには、朝廷との関係を重視。連歌会を頻繁に開きました。また日常から正しい正座を行っていたために模範にしたものも多くいます。
またキリスト教への理解力もあり、自らキリシタンにはならなかったものの、キリシタンの布教活動には寛容でした。そんな長慶は旧体制の面と新しい面を併せ持っていた人物で、戦国の一時期に天下人だったことは間違いありません。長慶死後は三好一族(三人衆)や松永久秀が当主・義継を支えて、将軍義輝を殺害。しかし後継将軍については内輪揉めが起こり、久秀は反目。14代将軍足利義栄擁立に3年かかります。
そして義輝の弟・義昭は織田信長を頼り、信長は上洛作戦を開始、義継ら三好三人衆を追放し義昭を15代将軍に据えます。以降も三人衆は四国を拠点に本願寺や浅井・朝倉らと手を組み信長と対決。しかし信長の前に敗れ去り、天正元年に義継は戦死。また天正年間には三好三人衆の活動も終焉を迎えました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
三好長慶は、信長が登場する前の天下人としてその名前が知られつつあります。ただ信長のように将軍を追放して室町幕府を終焉させず、表向きは将軍とナンバー2だった管領を立てていたので、よりわかりにくかったのかもしれません。そして京の保守勢力からは「成り上がり」ということで幾度となく反乱があり、その都度抑えていました。ただ弟や息子が予想以上に早く亡くなったのが長慶の不幸。もし彼らが生きていたら長慶の三好政権が全盛期のまま信長と決戦をしていたかもしれません。
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