人生の重大な決意を降す時って、誰にでもあると思いますけどドラマや映画と違い、妙なタイミングになる事が多いですよね?
それは戦国大名でも同じで、関ケ原の戦いで西軍の総大将になった毛利輝元は直前まで盆踊りをしていたそうです。そして、実際には大阪城から動かなかった毛利輝元が、徳川家康に過酷な減封を喰らった原因にも、ある人物の行動が影響していました。
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安国寺恵瓊西軍につく
古実聞書という毛利家の伝承によると、石田三成は関ケ原の戦いの前に、輝元を安芸から大坂城西の丸に迎える相談を毛利家の外交僧安国寺恵瓊としたそうです。これに安国寺は同心し、吉川広家に相談しました。しかし、広家は慎重で、これは家の存亡に関わる事なので、すぐに輝元公に告げてはならない一族の毛利秀元に相談すべきと回答します。
ところが安国寺は、これをまどろっこしいと思ったのか黙殺。同じく西軍につく事で同心した堅田元慶と共に安芸に向かい、毛利輝元に大坂に上るように勧めました。信長の横死を予言した安国寺恵瓊も、自分が関係する事態では洞察力が働かなかったようです。
真田丸でも採用して欲しかった盆踊り
その日は、ちょうど7月15日の盆踊りの日であり、輝元も踊っていたそうですが、にわかに決心して踊りを中断し、即刻その夜には出発したというのです。徳川の天下を決定づけた関ケ原の戦いの直前、輝元は盆踊りの熱狂の中で毛利家の運命の選択をしました。今後、NHK大河ドラマで関ケ原を描く時には、毛利輝元は盆踊りからの西軍参加決意だと面白くなるような気がします。
そういえば、織田信長は天下への道を開いた桶狭間の戦いの最中、謡曲敦盛を舞ってから、運命の地、桶狭間に突き進んでいきました。どちらも踊りと言えば踊り、決断と踊りは相性がいいのでしょうか?
動かない輝元の処分が過酷な理由
さて、西軍についた輝元ですが、実際には吉川広家を通して東軍の家康とも折衝していました。その為、輝元は大坂城から動かなかったのですが、にもかかわらず戦後の処分は過酷で周防と長門以外の領地を削られました。どうして、家康はここまで過酷な処分を輝元に課したのでしょうか?
それは、安国寺恵瓊と共に輝元を西軍に引っ張った堅田元慶のせいでした。堅田元慶は、戦いが始まると動かない輝元に代わり、淀城へ押し寄せて各地で乱取り(略奪)を開始。さらには、関ケ原の合戦場に小早川隆景の馬印を持ち出すなどして西軍アピールを煽りに煽ったそうです。
無双小早川隆景の馬印
さて、どうして堅田は、小早川隆景の馬印を持ち出したのでしょうか?
実は、小早川隆景は日本一の賢者と謳われ、豊臣秀吉に西日本は隆景に任せておけば大丈夫と太鼓判を押された人でした。一方で東日本の重鎮は徳川家康と指名されていて、秀吉は隆景を家康に匹敵する名将と考えていたようです。そこで堅田は小早川隆景の馬印を持ち出して家康を牽制し、西軍の士気を鼓舞したかったのでしょう。
ちなみに、堅田元慶は子供がなかった小早川隆景に養子として認められる程の実力者でしたが、元慶はそれを丁重に辞退し敢えて堅田と名乗っていたのだそうです。
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