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この記事の目次
毛利輝元石高半減しても堅田を救う
家康は堅田の馬印を始めとする一連の行動が許せなかったらしく、安国寺恵瓊同様の反逆者であるとして、輝元に、安芸、周防、長門の三国への減封と堅田の切腹を命じます。しかし、輝元は堅田切腹に難色を示して従いませんでした。
それというのも堅田は、毛利家の超重要人物で関ケ原前後の毛利家の外交を切り盛りし、諸大名は輝元に手紙を出す時の宛名に堅田大和守宛てにしている程だったからです。かくして、輝元の粘り強い交渉の結果、輝元は安芸を失う代わりに堅田を救う事ができました。大事な領地をひとつ失ってまで、寵臣を救った輝元もカッコイイですね。
毛利家家臣としての堅田
こうして輝元のお陰で助命された堅田元慶ですが、家康は助命しただけで堅田を赦免するつもりはなく人質として、次期当主の毛利秀就と共に江戸に留め置いて人質としました。輝元はその後も、福原広俊を通じて本多正信に堅田の赦免を求めますが、一時帰国は許されたものの赦免はされず、堅田は江戸の人質として55年の生涯を閉じます。
この無念から、堅田家では元慶の雪辱を晴らそうという執念が人一倍だったそうで、元慶の息子の就政は由比正雪の一党、金井半兵衛について軍学を学んで倒幕の時に備え、元慶の娘婿の梨羽頼母は、毎年正月の元旦に直目付の立ち合いの上で、藩主毛利秀就に「幕府追討はいかがでございますか?」と尋ねる儀式を繰り返していたようです。
歴史上、有名な長州藩の年始の問答ですが、その切っ掛けは輝元に迷惑を掛けてしまった、堅田元慶の娘婿から始まるのですね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
毛利家の運命を決し、同時に日本の歴史の方向性を定めた関ケ原の戦い、その決断を輝元は盆踊りの最中にしていたというのは意外な感じがしますね。同時に、大坂城から動かない輝元の代わりに小早川隆景の馬印まで持ち出して、東西対決をPRし家康に恨まれた堅田元慶。
本当は安国寺恵瓊同様に切腹を命じられた所を、輝元が安芸一国を犠牲にして救っていたというのも面白く、そうまでする背景には、実は堅田は輝元の命令を受けて暴れていたんじゃあないかとも考えてしまいます。
参考文献:歴史の愉しみ方 忍者、合戦、幕末史に学ぶ 中公新書
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