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この記事の目次
ラスプーチン暗殺
ラスプーチンは、政界から手を引く事を条件に大金と豪邸と護衛を与えると政敵から懐柔されるなど、泥沼の政治闘争から抜けられなくなります。ですが、分離するのが不可能なレベルで皇后とラスプーチンは一心同体であり、アレクサンドラのラスプーチンへの盲従も深くなっていました。
そして、1916年の末になると、ラスプーチンは年内の自身の死を予言し、娘の口座に自分の預金を移すなど死を意識した行動をするようになり、外出を極端に恐れるようになります。かくして、1916年12月17日、ラスプーチンは大貴族、フェリックス・ユスポフ一派によって暗殺されました。
不死身のラスプーチン
ラスプーチンが殺害されたのは、ユスポフが新築したモイカ宮殿でした。ラスプーチンを招待したユスポフは青酸カリを混入したプリフールと紅茶をラスプーチンに勧めましたが、それを飲み食いしてもラスプーチンは苦しむ様子もなく平然としていました。
驚いたユスポフですが、さらにラスプーチンにワインを勧めて泥酔させ、その後に自室に戻るとリボルバーを取り出し背後から2発発射しました。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫き地面に倒れ込みますが、しばらくするとラスプーチンは起き上がり、目を見開き自身の危機を知って逃げようとします。
うろたえたユスポフは悲鳴をあげて中庭に逃れ、その騒ぎを知って2階から下りてきた同志のプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲、4発の内3発は外れましたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れます。
しかし、それでもラスプーチンは起き上がったそうです。まるでゾンビです。混乱したユスポフは、何を思ったか靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、額を拳銃で撃ち抜きます。これが致命傷になり、さしもの怪僧も事切れます。47歳でした。
その後、ラスプーチンの死体は絨毯で簀巻きにされ、自動車に乗せて凍結したネヴァ川に捨てられ、警察に発見されますが、ロシアの大物が関与した事件の為、警察の捜査は進まず事件の真相には謎が多いようです。
世界史ライターkawausoの独り言
皇后アレクサンドラを通じてロシアの政治に関与したラスプーチンには、帝政ロシアを混乱させた責任があるでしょう。しかし、ラスプーチンは元々ドイツとの開戦には反対であり、その後もドイツとの和睦を模索するなど、一貫して平和主義でした。
ロシア正教の司教を自身の派閥に属する人間に替えるなど政治の私物化の面はありますが、晩年は暗殺に怯え、ままならない政治に疲れており、帝政ロシアを滅亡させた張本人とまではいえないでしょう。
どちらかというとラスプーチンは死後、写真の怪異な容貌や不死身ぶり、謎だらけの暗殺の様子からミステリアスな人物像が造られて、大悪党のイメージが産み出されたのではないかと思います。
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