
突然ですが「日本三大がっかり名所」という言葉をご存じでしょうか。一番目は高知のはりまや橋、二番目は北海道の札幌市時計台。この二つは鉄板なんだとか。しかし三番目は様々な候補があるようです。
そういえば、世界中にたくさんの「世界三大なんどか」が存在しておりますが、三番目は諸説あるケースが多いようです。「世界三大美人」はクレオパトラと楊貴妃、そして三番目は日本では小野小町と言っておりますが、世界的にはヘレネーというギリシア神話に出てくる女神なのだとか。「世界三大夜景」は香港とナポリ、そして三番目は函館だったり、長崎だったりするそうです。必ず三番目に日本が絡んできているのはどうしてなんでしょう。もしかしたら日本人だけが「世界三大なんとか」って騒いでいるのかもしれません。
そういえば、「世界三大料理」も本来であればフランス料理、中華料理、そして三番目はトルコ料理なのですが、この三番目には様々な国が自国の料理を押している(イタリア、タイ、日本など)そうですよ。
話は戻ります。
日本三大がっかり名所の三番目として、自虐的に地元の名所を押す人が多いようですが、そのひとつとして「仙台(青葉)城」を挙げる方がいらっしゃいます。それはどうしてなのでしょうか。
人は「がっかり」する時、期待感が大きく、その期待感が裏切られるために起こります。どうやら広く伝わっている「仙台(青葉)城」のイメージと、実際の魅力とのギャップが発生しているようです。それでは「仙台(青葉)城」の本当の魅力は何なのか?
今回はそのあたりについて、様々な角度から考察していきたいと思います。
※ちなみに「世界三大がっかり名所」は、ベルギーの小便小僧、デンマークの人魚姫、シンガポールのマーライオン。その理由のほとんどは「思っていたより小さい」なんだそうです。
この記事の目次
- 「お城=天守閣」「仙台城=伊達政宗」のイメージになってはいないか
- 仙台(青葉)城築城時には伊達政宗の夢は終わっていた?
- 徳川家康の命で築城された。敵は上杉家?それとも伊達家自身?
- 最大の見どころは日本一と評された「天然の要塞」
- 戦国時代の最後に造られた山城は平和の時代に不必要
- 仙台(青葉)城の石垣・「切石整層積み」と「すずめ踊り」
- 市民の要望で再現された大手門脇櫓
- 仙台城VRゴーでタイムトリップ体験(青葉城資料展示館)
- 仙台(青葉)城は「廃城令」を逃れることが出来ず、最後は戦火で焼失
- 土方歳三ファンは必訪。激怒して会議を飛び出した因縁の地
- 奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊とは?
- 戦国時代ライターかずさんの独り言
「お城=天守閣」「仙台城=伊達政宗」のイメージになってはいないか
仙台(青葉城は)明治に行われた廃藩置県まで270年続いた仙台藩62万石の中心です。初代藩主はあの有名な伊達政宗。城全体の面積は約2万坪(江戸城に次ぐ規模)といった情報から、「さぞかし立派なお城だろう」と思って訪れた観光客にとっては、確かにイメージとは遠くかけ離れた存在に映ることでしょう。
おそらく、そう思われる方の多くは「お城=天守閣」というイメージを持たれているのではないかと思います。そういうわたしも、いちばん最初に「仙台(青葉)城に訪れた時はそういったイメージを持っていましたので、「えっ!何もない。」っていう感想でした。
しかし、お城とはそもそも、敵から身を護るための軍事的な施設全体を指しています。ですので、「お城=天守閣」ではありません。
「何もない」じゃなくて、立っている場所全体が観光スポットなんだってことに気付いていただけると、「なんとも巨大なお城なんだろう」っていう真逆の感想を持っていただける筈なんです。そもそも仙台(青葉)城には天守閣はありませんしね。
※天守台はあるのに天守閣がないのは、これまたなんとも不思議なのですが、これは伊達政宗が徳川家康に対し敵意がないことを示すために敢えて築城しなかったと言われています。仙台(青葉城)を鑑賞するには、天守閣のイメージを捨てていただき、軍事施設全体としての「お城」を鑑賞していただけると、様々な魅力に気付いていただけると思います。
仙台(青葉)城築城時には伊達政宗の夢は終わっていた?
伊達政宗が生まれたのは1567年。織田信長は1534年生まれ。豊臣秀吉は1537年、徳川家康が1543年。天下統一を目指し、東北地方を八面六臂の活躍で平定していった伊達政宗ですが、いかんせん遅く生まれすぎました。
東北地方に広大な領土を築き、さぁこれからという頃には、豊臣秀吉は既に天下統一を目前にし、小田原城攻めを行う状況でした。歴史好きの人が語り合う際に、「伊達政宗が15年前に生まれていたら天下統一出来たのではないか」という話題が出てきますが、そういった想像をするのは楽しいですよね。
もしかしたら、東北地方を足がかりに関東地方をも平定した伊達政宗が、西から来る豊臣秀吉と小田原あたりで関ヶ原のような天下分け目の戦いをしていたかもしれません。しかし実際の歴史は皆さんがご存じのとおり、伊達政宗は豊臣秀吉の家臣として小田原に参陣したことで、伊達政宗の天下統一の夢は、実質的には終わりました。
豊臣秀吉没後、伊達政宗は徳川家康と行動を共にすることとなり、関ヶ原の戦いの際は、西軍側に立った上杉景勝の家臣、直江兼続を相手に、東軍側の同盟国として東北地方を戦場として戦うこととなります。
この戦いは、関ヶ原の戦いでの結果を経て終息します。そして結果、伊達家と上杉家は徳川政権下の下、隣国として存続することとなり、その後に築城されたのが仙台(青葉)城です。仙台(青葉)城にある政宗公騎馬像の前に立てば、伊達政宗と同じ視線で市街を、そして仙台平野を一望し、遥か先には太平洋の水平線までみることができます。
戦国時代が終わろうとしている時、伊達政宗はこの景色をどのような心境で眺めていたのでしょうか。実は伊達政宗は後に、支倉常長を正史としてヨーロッパに遣欧使節を送るわけですが、「スペインと軍事同盟を結び、討幕を企てていた」のではないか、という説もあります。
もしかしたら、まだ夢を見続けていたのかもしれませんね。実際に同じ景色を見ながら、伊達政宗の本心を思案してみるのも愉しみ方の一つではないかと思います。
徳川家康の命で築城された。敵は上杉家?それとも伊達家自身?
前述のとおり、仙台(青葉)城は関ヶ原の戦いの後に築城されました。大阪夏の陣の前ですから、我々の世代からみると戦国時代は終わっている訳ですが、当時の人達の感覚からすると、まだ完全に天下平定がなされたわけではありません。
そんな折、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した報酬として与えられた領地を統治するには、当時の居城であった岩出山城は北に位置しすぎているということで、居所を移転することとなります。
伊達政宗は石巻・日和山などいくつかの候補地を徳川家康に提示したのですが、徳川家康が築城を許したのが、当時千代城のあった現在の場所でした。海の交通という観点からすると、海からはかなり離れておりますが、広瀬川や名取川を利用すれば太平洋に出ていくことのできる要所でした。
しかし陸の交通という観点からすると、奥州街道からはかなり離れた場所であり、城下町として発展させるにはかなりの困難が予想されました。徳川家康が指定した場所は、天然の要害で護りを固めるには最適な場所だったのですが、経済の中心地ではなかったんですね。現在の仙台(青葉)城を選んだ徳川家康の真意はなんだったんでしょうか。
・東北圏の経済が発展し、仙台藩が財力を伸ばすことを警戒していた
・関ヶ原の戦いで最後まで抵抗していた上杉家との一戦を想定していた
・城の護りを固めようとした時に謀反の濡れ衣を着せ、取り潰そうとしていた
様々なケースが考えられますが、伊達政宗が天守台を造ったのにも関わらず、天守台を造らなかったのは、徳川家康の謀略にきづいていたのかもしれません。
最大の見どころは日本一と評された「天然の要塞」
訪日経験のあるスペインの探検家、セバスティアン・ビスカイノに「日本の最も優れ、又最も堅固なるもののひとつ」と言わしめた仙台(青葉)城。広大な仙台平野のイメージから平城かと思いきや、仙台(青葉)城は完全に山城です。
実はこのギャップが仙台(青葉)城の一番の見どころではないかと思います。本丸は山の上に造られており、南側は竜の口渓谷といって谷が長さが3kmにも及びます。深く切れ込んでいる地形で入り口付近でも40mの深さがあります。市街地にあるとは思えない、四季折々の野趣あふれる景色を堪能することができる場所です。東側は広瀬川が自然の堀として機能しており、断崖絶壁が天然の石垣の役割を果たしています。お城の背後にあたる西側は青葉山の尾根筋が続いています。
「御清水(おすず)」と呼ばれていた水源もあったようなので籠城するには完璧な環境です。つまり、三方向が天然の要害に囲まれています。戦国時代にもし仙台(青葉)城が存在していたのであれば、城攻めの得意であった豊臣秀吉であっても攻めあぐんだでしょう。
このように仙台(青葉)城の最大の見どころは「天然の要塞」として機能した立地環境です。おそらく仙台(青葉)城に訪れてがっかりされる方の多くは、バスなどに乗って友人とおしゃべりをしていたら到着してしまい、降りたら天守閣がなくてがっかり、というパターンなのではないかと思います。
可能であれば、ご自身の足で高低差や要害を実体験しながら、歩き回ってみてほしいです。例えば、現地で地図とにらみ合いながら、自分が軍師だったら仙台(青葉)城をどう攻略するのか、といったようなことを考えてみたりすることで、より一層知的好奇心をくすぐられること、間違いなしです。
戦国時代の最後に造られた山城は平和の時代に不必要
戦国時代が終息する直前に、最強の護りを誇る山城が築城されたのは誠に皮肉な話ですが、大阪夏の陣が終わり、正に平和な世の中になると、護りに優れている山城であることが災いとなってしまいました。
もし皆さんが出社する会社や就学する学校が山の上にあり、毎日山の上り下りをしなければならないとしたら、どう思いますか?
「何であんな山の上にあるんだよ。山の下に造れば楽じゃないか。」って思いませんか。伊達藩の人達もそう思っていたんでしょうね。伊達政宗没後、二代目藩主となった忠宗は江戸幕府の許可を得て本丸より一段低い土地に二の丸を建造しました。藩の政務を執行する建物や藩主の住居も置かれたため、これ以降は山の上に登る必要がなくなってしまいます。
これと前後して三の丸も整備されます。水堀を掘り、山を削り、土を盛って周囲より少し高くし、さらに土塁で囲んだ曲輪でした。こちらには主に年貢米などを貯蔵する蔵があったと考えられていますので、盗難などからは護る必要があったんでしょう。三の丸の完成で、山の上に重い年貢米を運ぶ必要はなくなり、仙台(青葉)城は、平和の時代にふさわしい城へと姿を変えていきました。ちなみに現在、二の丸には東北大学、三の丸には仙台市博物館が建っています。
仙台(青葉)城の石垣・「切石整層積み」と「すずめ踊り」
「切石整層積(きりいしせいそうづ)み」とは、石切場(いしきりば)で規格された大きさの石材を調達し、石積みの際に、石垣の横方向の目地が通るように積まれた「切込接(きりこみは)ぎ」ともいわれる技法です。前面に見えている部分は四角く加工した石材が用いられているので、横に水平になるよう整然と積まれており、美しいフォルムを形成しています。
自然の地形を利用した城であるため、石垣はさほど利用されていませんが、本丸北壁の石垣は高さ約17m、長さ約179mにもなります。そんな精巧に造られた石垣ですが、やはり年月とともに傷みが目立ってきたため、平成9年から平成16年にかけて修復工事が行われました。この修復工事によって、これまでにも何度か修復工事が行われてきたことがわかりました。地震により被災したことが理由だと考えられています。
「すずめ踊り」とは仙台(青葉)城落成時に踊られ、伝承されてきた「踊り」を元に、「仙台・青葉まつり」向けに現代風に創作された踊りなのですが、石垣づくりととても深い関わりがあります。
実は石垣造りのために泉州・堺からきていた職人が祝いの席において、喜びのあまり浮かれて弾けるように踊った踊りが元になっているのです。即興として踊られたようですが、元になっているのは和歌山県御坊市の「すずめ踊り」ではないかと言われています。
躍動感があり小気味よいリズムで踊る姿が、餌をついばむ雀の素振りに似ていることと、伊達家の家紋が「竹に雀」が描かれていることから、仙台の町に定着していったようです。北海道・札幌で独自の成長を成し遂げた「よさこいソーラン祭り」と、高知の「よさこい祭り」との関係のような例が昔にもあったというのは驚きですね。
参考URL:
・石垣は語る-石垣修復工事の概要-(仙台市:外部リンク)
・仙臺すずめ踊り連盟(外部リンク)
市民の要望で再現された大手門脇櫓
散々「お城=天守閣」ではないと言ってきましたが、そうはいってもやっぱり建造物がみたいという方は、大手門脇櫓鑑賞を愉しみましょう。白漆喰で塗られた総白壁造であった大手門脇櫓で、昭和6年には国宝に指定されています。
昭和20年の空襲で焼失してしまいますが、昭和42年に民間の寄付によって外観が復元されました。大手門北側にある土塀は、唯一戦火での焼失を免れたもので、江戸時代からの残る唯一の建造物です。夜になるとライトアップされていて実に綺麗です。仙台の夜景と併せて観光に来られる方が多いようです。
仙台城VRゴーでタイムトリップ体験(青葉城資料展示館)
仙台(青葉)城の360度パノラマ映像が約20分間体験できるサービスです。専用スコープは青葉城資料展示館にて有料で貸出されています。雨天中止、7歳に満たない子供の利用は出来ませんのでご注意ください。VR、そして5Gの時代ですから、実際に復元することができないのであればコンピュータグラフィックスでの再現は一つの有力な方法ですよね。個人的には城攻めの疑似体験ができるようなVRのサービスを行ってくれないかなぁって期待してしまいます。
「映画・プライベートライアン」並みのリアルな映像での再現を期待してしまいます。詰の門から御成門、大広間、そして城下町の眺望がみられるのですが、筆者が一番気に入ったのは、天然の要塞であった当時の仙台(青葉)城の様子が感じられる、上空から俯瞰した映像です。一見の価値はあり、ぜひ体験してみてください。
仙台(青葉)城は「廃城令」を逃れることが出来ず、最後は戦火で焼失
戦国時代には、日本全国いたるところに天守(お城)があったわけですが、現在は12基しか残っていません。それはどうしてなのでしょうか。実は天守が減ってしまったのは、大きく2つの時代背景が考えられます。
「一国一城令」
徳川幕府は大名の防衛力を削ぐため、居所となる1城以外の城の破却と、新しく城を造ることを禁止しました。それによって全国に3000程あった城は江戸時代には170ほどに激減してしまいます。
「廃城令」
廃藩置県を機に天守(お城)は一旦陸軍の所有物となりました。しかしすべてが軍用地として必要だったわけではなく、維持費に莫大な費用がかかったため、要塞として必要な天守(お城)は残されることとなり、その他の城は財務省の管理となり、取り壊されてしまいました。お城跡に学校や県庁、警察署などが建っているのはそのためです。
そんな時代背景の中、仙台城は「廃城例」のあおりを受け、陸軍用地として使用されることとなり、ほとんどの建物が取り壊されてしまいました。軍用地としての役目を果たした後、二の丸の跡地には東北大学が、他には護国神社や仙台市博物館などが建設されています。
土方歳三ファンは必訪。激怒して会議を飛び出した因縁の地
幕末の仙台藩は奥州越列藩同盟(反新政府)の盟主として活動しましたが、結局新政府軍と戦うことはなく、仙台(青葉)城は一度も戦場とならずに城の役割を終えました。奥州越列藩同盟が新政府軍に降伏する前に、仙台(青葉)城の大広間で開かれた会議には、榎本武揚や土方歳三なども参加しています。
その際、土方歳三は同盟の軍事的な責任者である総統に推挙されたのですが、承諾の条件として「生殺与奪の権限」を提示します。
「たとえ身分が高い人物だとしても、逆らうものは全て剣で制裁する」という土方の提案は諸藩の賛同を得ることが出来ず、土方歳三は激怒し、席を蹴って退場したと言われています。
そもそも徹底抗戦の覚悟がなかったのでしょう。奥州越列藩同盟はその後、新政府軍に降伏するのですが、榎本武楊や土方歳三ら旧幕府軍は、戦艦とともに蝦夷地に向かうこととなります。いかにも土方歳三らしい「激怒して会議を飛び出した」というエピソードは、ファンの心を高ぶらせてくれるでしょう。ちなみに土方歳三が飛び出した会議を行っていた本丸大広間は、伊達政宗騎馬像の裏側あたりなのだそうです。
それにしても戦の天才であった土方歳三が総指揮を執り、「天然の要塞」である仙台城で新政府軍を迎え撃ったならどうなっていたか、ちょっと見てみたかったような気もします。
奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊とは?
奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊とは、杜の都・仙台をPRするために結成された、仙台市の観光PR部隊です。様々なイベントを通じて、仙台(青葉)城鑑賞を盛り上げてくれています。公式サイト上で仙台(青葉)城での出陣予定や、各種イベントの予定が掲載されていますので、日程を合わせて参加してみてはいかがでしょうか。
ちなみに奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊は、「伊達政宗」、「伊達成繁」、「片倉小十郎景綱」、「茂庭綱元」、「支倉六右衛門常長」、「くの一 畑」、そして「松尾芭蕉」で構成されています。構成員の全国的な知名度でいうと、なごやおもてなし武将隊には叶わないですが、個人的には「支倉六右衛門常長」と「松尾芭蕉」の活躍ぶりが気になります。
戦国時代ライターかずさんの独り言
いかがでしょうか。仙台(青葉)城に対する興味が溢れんばかりに湧いてきたのではないかと思います。前述にもありました通り、天守閣ではない、防御のための軍事拠点としての、そして自然の要害としてのお城の魅力が仙台(青葉)城には詰まっています。
「戦国時代=伊達政宗」だけではなく、「幕末=土方歳三」ファンでも愉しめる、歴史の「たられば妄想シミュレーション」の聖地です。土方歳三ファンである筆者は、土方歳三が率いる軍が仙台(青葉)城で新政府軍を迎え撃ったらどうなっていたか、という「たられば妄想シミュレーション」が止まりません。「お城=天守閣」ではないということを体現しに、ぜひ仙台(青葉)城に来てみて、歩き回ってみてください。
参考URL:
・仙台城VRゴー(外部リンク)
・石垣は語る-石垣修復工事の概要-(仙台市:外部リンク)
関連記事:大坂落城後に死者が続出?豊臣の財宝の謎
関連記事:江戸城には弱点があった!無血開城するまで難攻不落だった江戸城
関連記事:名古屋城とはどんなお城?受難が続いた金鯱の秘密や名古屋城の魅力













