NHK大河ドラマ麒麟がくるで人気爆発の戦国大名、松永久秀。吉田鋼太郎が演ずる松永久秀の最期が、信貴山城の天主で名物茶器の古天明平蜘蛛に爆薬を詰めて爆死というボンバーマン落ちはよく知られているでしょう。
しかし、いかにも松永久秀に似合いのこの話、戦後に誕生したデマであり実際の久秀は爆死していない事が分かっています。では、どうして松永久秀は派手に爆死する事になってしまったのでしょうか?
今回は中世史家、天野忠幸氏の著書、松永久秀と下克上から考えてみます。
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松永久秀の最期はどんどん盛られていった
人の噂には尾ひれがつくもので、特にそれが耳目を引くような話ならなおそうです。少し前に、浮世絵師の歌川国芳が東京スカイツリーを浮世絵に描いたと話題になりましたね?
あれなども噂に尾ひれがついた典型で、元々スカイツリーみたいに見えなくね?という程度の話が、あれはスカイツリーだ!になり、歌川国芳はタイムトラベルしてスカイツリーを見ていて、江戸時代に戻って浮世絵の中にスカイツリーを描いたとエスカレートしていきました。
実際に、国芳が描いた浮世絵、東都三ッ股之図をちゃんと見ると、それはスカイツリーとは似てない事がすぐに分かります。松永久秀の爆死も同じであり、最初は松永久秀が爆死したなんて書いてある史料は、実はどこにもなく時代を経るごとに盛られていっただけなのです。
太田牛一、太かうさまくんきのうち
松永久秀の最期について触れているのは、信長公記の著者でもある太田牛一です。彼が豊臣秀吉を顕彰する名目で書いた「大かうさまくんきのうち」には、松永久秀の最期はこのように書かれています。
去るほどに、先年松永仕業をもって、三国かくれなき大伽藍奈良の大仏殿、十月十日の夜、すでに灰燼となす。その報いたちまちやってきて、十月十日の夜、月日時刻も変わらず、松永父子妻女一門歴々、天守に火を掛け平蜘蛛の釜打ち砕き、焼け死に候。
ここで、太田牛一は松永久秀が名物の平蜘蛛の茶釜を打ち砕いて焼け死んだとしています。ボンバーマンのボの字も出てきません。
川角太閤記で火薬についての記述が出る
この太田牛一の大かうさまくんきのうちが出た1610年から、5年から10年後に成立したのが川角三郎右衛門が執筆した川角太閤記で、以下のように松永久秀の最期に触れています。
松永殿、大和信貴山の城にて切腹の時、矢倉下へ付け申し、佐久間右衛門手より城の内へ呼ばわりかけ申すに、ちっとも違い申さずと、人々後に申されけるとかや。言葉しも相たがわず、首は鉄砲の薬にて焼き割り、微塵に砕けければ、
平蜘蛛の釜と同前なり。
川角太閤記では、首は鉄砲の薬、つまり火薬で焼き割って微塵に砕け、平蜘蛛の釜と同じ運命を辿ったと書かれています。全身ではありませんが松永久秀の首と平蜘蛛の釜は爆薬で木っ端微塵になったという事でしょう。本当なら壮絶な最期です。
でも、これでも全身を吹き飛ばす爆死とは随分遠いと言えると思います。そもそも、ダイナマイトも発明されていない戦国時代に、大の大人1人を吹き飛ばす火薬を用意するのは至難の業であり、そんな手間暇があれば、その火薬を敵に向けて使う方がいくらか有益でしょう。
松永久秀が爆死を開始したのは戦後である
Wikipediaによると、松永久秀が爆死するようになったのは、1960年代と戦後の事のようです。昭和時代の歴史学者、桑田忠親が著わした一般向けの歴史書がその嚆矢で、当初は「自決」次には「自害」と記述が変わり、桑田忠親『茶道の歴史』1967年、110頁ではいよいよ
久秀は天をあおいで嘆息し、天下の逸品「平蜘蛛」の茶釜を首につるし火薬に点火して、茶釜もろとも自爆した。
このような、演出過剰な最期に変化していったようです。
いやいやいや、いくらなんでも、桑田先生、、平蜘蛛を首に吊るして火薬に点火して茶釜もろとも自爆って、もうハリウッド映画じゃないですか!
一般向けの歴史書とはいえ、こんなに話盛られたら定着するの当たり前ですよね?面白過ぎますもん。
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