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この記事の目次
茶釜と松永の首は別々の話だった。
そもそも、久秀が火薬で自分の首と平蜘蛛を爆破したというのは、戦国時代のリアルタイムの記録である兼見卿記や多聞院日記には、見出せません。そこには、松永父子は切腹して火を放ち自らを焼いたという記述や遺体が焼けたあとで首4つが安土城に送られたという記録があるだけです。
ここには、鉄砲薬も茶釜を爆発させたという内容はありません。さらには猛火の中で失われた平蜘蛛についても松屋名物集には、若江三人衆の1人である多羅尾光信が砕けた平蜘蛛の破片を継ぎ、もう一人の若江三人衆の多羅尾綱知が天正8年(1580年)の閏3月13日の茶会で使用した事が分かっています。
はい!つまり、茶釜の破壊と松永久秀の首の話は、松永久秀が死んだ頃には、別々の話で、繋がった話ではなかったのです。
老人雑話で話が混ざった
日本中世史家の天野忠幸氏の松永久秀と下克上によると、元々別の話だった松永久秀の首の話と砕かれた平蜘蛛の話が融合したのは元和年間に成立した老人雑話で、これにより久秀の首も平蜘蛛の釜も火薬で木っ端微塵に吹き飛んだ事になったと推測しています。
さらに老人雑話の話が、享和4年(1804年)に茶席で話題にすると良い数寄雑談を選んで刊行された「茶窓閒話」に収録されました。どうして、茶席の話に松永久秀の爆死の話が選ばれたのかというと名物に命を懸けた久秀の生きざまが茶人らしいからという事でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は、松永久秀と爆死について書いてみました。
そもそも同時代では、茶釜の破壊と松永久秀の首は別々の話だったものが、老人雑話で一つになり、江戸時代も後半に茶席でするとよい話として収録された茶窓閒話に載り、茶器に命を懸けた茶人として松永久秀が知られるようになり、それが1960年代に茶器もろとも爆死する戦国のボンバーマンへと変化したのです。
人気がある人だけに、噂の尾ひれのつきかたもメガトン級ですね。
参考文献:松永久秀と下克上 室町の身分秩序を覆す
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