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陳宮の離反
そしてこの呂伯奢一家の件は、三国志演義で陳宮が曹操から離反するきっかけとして描かれています。三国志演義では董卓の暗殺に失敗した曹操は逃走。しかしその最中に陳宮によって捕らえられます。
ですがこの際に陳宮は曹操の志に共感、この人こそ自分が付いていくための人物……と思うもこの曹操の振る舞いを見て見誤ったと離反することとなります。ですがこれはあくまで三国志演義での記述であり、正史三国志ではそうではありません。
陳宮離反の経緯
正史では陳宮は最初から曹操に仕えており、192年には既に配下にいたようです。そして194年曹操は徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を任せます。しかし曹操軍の大部分が離れた隙をついて陳宮は謀反を企みます。
この陳宮が離反、反逆した動機としては袁紹と同盟して自分を攻撃すると考えた不安から、曹操への疑いを抱いたともされていますが、こちらでも詳細は不明です。そしてここについて、少し考察をしてみたいと思います。
陳宮はどうして離反したのか?
191年に黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹に東郡太守任命を上奏されました。この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡という豪族を殺害しています。この王匡、かつて董卓から胡毋班の娘婿が和睦の使者としてやってきた時に、袁紹の命令で殺害しています。これを恨みに思っていた遺族によって王匡は殺害されてしまったのです
そして陳宮は地方豪族であっても殺害した曹操に、いずれ自分の立場も危ないと疑心暗鬼になってしまったのではないでしょうか。かといって劉表や袁紹も同じようなことをやっていたため、頼るものもいない。
そこで呂布を使って曹操に反旗を翻し、自分の立場を守ろうとした……曹操が疑心暗鬼から呂伯奢一家を殺害してしまったように、陳宮もまた疑心暗鬼から曹操から離反したのではないかと考えてみました。
そしてこの離反を三国志演義では呂伯奢の件と結びつけたのではないか、というのが筆者の考察です。正史の陳宮はやや尊大なイメージがあるので、三国志演義での曹操のイメージとも重なると思うのですが……どうでしょうか。
三国志ライター センのひとりごと
呂伯奢一家を殺害した事件は、三国志演義で見ても曹操が恐ろしくなった逸話でした。しかしそれ以上に、ついさっき曹操に付き従うと決めたばかりの陳宮がいきなりそれで曹操から離反したことが何だか不思議にも感じたシーンでもあります。
そして正史を振り返っても陳宮が離反した理由は特に見当たらず……そこで当時起きた事件と色々重ね合わせて見ての考察でした。年表と睨めあいっこしながら考えを巡らせてみましたが、まだまだ陳宮が離反した理由は不明のまま。もしよければ皆さんも考察してみて下さいね。
参考文献:
魏書呂布伝 魏書武帝紀 袁紹伝
魏書 世語 異同雑語
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