仙石秀久の名前は宮下英樹の漫画「センゴク」のお陰でメジャーになっていて、その生涯もよく知られています。
仙石秀久の凄さとは、一度大名になってチョンボして浪人になりながら再奮起して大名に返り咲くというミラクルを実現した事でしょう。シューティングゲームの如く、一度墜ちたらゲームオーバーが普通の戦国において、諦める事なく再起した仙石秀久の生涯を解説します。
この記事の目次
天文21年1月26日美濃国に生まれる
仙石秀久は、天文21年(1552年)1月26日、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国賀茂郡黒岩村に誕生しました。四男坊の秀久には家督相続の可能性が低く、親交があった越前国の萩原国満の養子になっていましたが、隣国の織田家と斎藤家が激しく争い、仙石家の嫡男が相次いで討死する事態になり、久盛から美濃に呼びもどされ家督を継ぎます。
仙石秀久は、永禄7年(1564年)14歳で織田家に入り、17歳の時に美濃稲葉山城が陥落した時に織田信長の目に留まり、羽柴秀吉の与力として配属され、以来、秀吉が死ぬまで子飼いの家臣として活躍を続ける事になりました。
近江国野洲郡千石の領主となる
永禄11年の織田信長の上洛後には、羽柴隊の馬廻衆として各地を転戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井方の山崎新平を討ち取りました。
改選仙石家譜には、これ以上の記録がなく、山崎なる人物の身分などは不明ですが、天正2年に近江国野洲郡1000石を与えられている事から、それなりの名のある人物だったのでしょう。
領主となった秀久は、身を固める必要に迫られ、羽柴家の黄母衣衆の一員である野々村幸成の娘を正室に甲斐の浪人の娘とされる慶宗院を側室に迎えてウヒョりまくり、10男6女を儲けました。
中国攻略・淡路遠征で4000石に加増
その後、羽柴秀吉が明智光秀との出世レースに勝ち、中国の毛利征伐を命じられると秀久も従軍して天正6年(1578年)に4000石に加増。
翌天正7年には茶臼山城を任され、赤松峠を越える播磨道の警護に当たり、三木合戦で秀吉が三木城を包囲していた時には、湯の山街道や有馬温泉を統括する奉行を命じられ完璧な身辺警護と補給の円滑化に功績を挙げました。天正9年、毛利方の菅達長が守る淡路島の北端岩屋城攻めに参加し黒田官兵衛等と岩屋城や由良城を陥落させています。
本能寺の変後淡路を平定し淡路国5万石の大名になる
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が勃発すると、羽柴秀吉が中国大返しで、明智光秀と山崎の戦いを続ける間、秀久は淡路で明智光秀方についた豪族の討伐に貢献。
その後、清須会議を経て、天正11年4月、秀吉と柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが起こると、秀久も羽柴秀勝とともに十二番隊の将として参戦する予定でしたが、秀吉の命令で長宗我部氏の抑えとして近江から淡路へ向かう命令を受け、四国で長宗我部元親と激闘します。
しかし、戦いは長宗我部元親が上手で、次々と城を奪われ拠点であった引田城も失い、秀久は幟を奪われる大失態を演じて淡路島に逃げます。ところが転んでもただでは起きない秀久は、以後は厳重に守りを固めて淡路島と小豆島を守り瀬戸内の制海権を維持して四国勢を牽制しました。
秀久は、淡路平定の軍功を評価され淡路国5万石を拝領して大名となり洲本城を本拠とします。その時、秀久は31歳、豊臣恩顧の部将では異例のスピードでの国持ち大名への昇進でした。
淡路受領後の秀久は、淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助などの複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で功績を挙げ、さらに因縁の四国攻めでは喜岡城を攻略、木津川攻めで城の要を抑えて城内の水源を断つなど奮戦しました。四国平定の功績から、秀久は讃岐一国12万石(内2万石は十河氏)を与えられ、聖通寺城、或いは高松城に入城します。
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