織田信長と浅井長政、戦国一の美女と言われたお市の方の輿入れにより一度は義理の兄弟として深い絆で結ばれたかに見えました。しかし後には長政による裏切り、そして最期は義理の兄信長が弟長政を攻め滅ぼしてしまいます。
身内であっても裏切りや暗殺、反逆が多かった戦国時代においても印象深い二人の関係。信長と長政の関係を軸に、桶狭間の戦い以降、信長が戦国の雄に駆け上がるダイナミックな時代を追ってみましょう。まずはその前半、信長と長政の同盟締結から裏切りまでを振り返ってみます。
この記事の目次
- 1ページ目
- 二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
- お市の方の輿入れ~同盟締結
- 1.美濃攻略のための同盟:
- 2.勢力安定と拡大への準備同盟:
- 2ページ目
- 3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
- 信長、長政にとっての同盟のメリットは?
- 蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
- 朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
- なぜ、信長は出陣要請しなかった
- 長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
- 3ページ目
- 虚構だった金ヶ崎の退き口
- 長政裏切りの真意とは?
- 悟空さんの中間まとめ
- 姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
- 4ページ目
- 信長出陣、姉川の戦いへ
- 志賀の陣:第一次信長包囲網の形成
- 長政、琵琶湖西岸から攻め上る
- 一時休戦、長政最大のチャンスを逃す
- 小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成
- 5ページ目
- 信長、再び小谷城へ出陣
- 小谷城陥落~長政の死
- 浅井氏滅亡その後
- 戦国ライター悟空さんの独り言
二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った信長は、今川家の弱体化、三河岡崎城主に地盤を確保した松平元康(のちの徳川家康)との清州同盟(永禄4年=1561年)と東に憂いを無くすことに成功しました。これを背景に尾張北部、犬山周辺に残る反対勢力排除による尾張統一と美濃攻略に着手することになります。
一方、桶狭間の戦いから三か月後、元服直後、15歳の長政(当時は賢政と名乗っていました)は南近江の強豪六角氏との野良田の戦いに勝利。北近江での浅井家を六角氏の従属から解き放ち戦国大名としての地位を固めることに成功しました。長政の祖父亮政が獲得した北近江もその後父久政の代には六角氏に臣従することで辛うじてその立場を保っていましたが、長政がそれを取り戻すこととなりました。
お市の方の輿入れ~同盟締結
その後信長は永禄10年(1567年)に稲葉山城を攻略し、念願の美濃を手に入れることになります。これに前後して、長政との同盟を妹お市の方を輿入れすることで締結することになります。このお市の方輿入れ時期には諸説あり、その時期によって信長にとっての同盟の目的が変わってしまいます。
1.美濃攻略のための同盟:
一番早い時期としては永禄2年(1559年)から永禄6年(1563年)という説です。この場合、信長にとっては美濃攻略を首尾よく進めるために北近江浅井家との同盟によって背後から牽制してもらうのが目的と考えられます。
2.勢力安定と拡大への準備同盟:
続いて永禄7,8年(1564,65年)説です。この時点でも信長は美濃を手中に収めておらず、一見すると先の説と変わらないように見えます。しかしこの頃には、尾張統一を果たし(永禄8年=1565年)、武田信玄との同盟のため養女を信玄の四男勝頼に娶らせています。すなわち美濃攻略は目の前の課題ではありますが、もう少し広い視野での領国安定化を見据えだした時点にあたります。
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