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この記事の目次
- 1ページ目
- 二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
- お市の方の輿入れ~同盟締結
- 1.美濃攻略のための同盟:
- 2.勢力安定と拡大への準備同盟:
- 2ページ目
- 3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
- 信長、長政にとっての同盟のメリットは?
- 蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
- 朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
- なぜ、信長は出陣要請しなかった
- 長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
- 3ページ目
- 虚構だった金ヶ崎の退き口
- 長政裏切りの真意とは?
- 悟空さんの中間まとめ
- 姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
- 4ページ目
- 信長出陣、姉川の戦いへ
- 志賀の陣:第一次信長包囲網の形成
- 長政、琵琶湖西岸から攻め上る
- 一時休戦、長政最大のチャンスを逃す
- 小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成
- 5ページ目
- 信長、再び小谷城へ出陣
- 小谷城陥落~長政の死
- 浅井氏滅亡その後
- 戦国ライター悟空さんの独り言
虚構だった金ヶ崎の退き口
ただ果たして、実際はこのように信長軍が命からがら京に戻らなければならない危険な局面になったのでしょうか?
先に述べたように、同盟を結んでいるにもかかわらず出陣しない長政を信長は警戒しないでしょうか?
長政の元には妹お市の方おり、戦国の世では輿入れして後もある意味スパイとして実家にその動向を常に伝えている役目を帯びていたはずです。このような局面(背後から襲われる危険性)では、当然情報伝達が行われていたと考える方が自然です。この裏切りが長政主導ではなく父久政と反信長親朝倉派の家臣の共同謀議であったとする話が伝えられていますが、そういった家中のムードも事前に伝えられていた可能性もあります。
信長はそういった浅井家内部の不統一、あるいは長政の信長に対する専横ぶりに対する不満など同盟を脅かす状況をすでに察知していたはずです。
この僅か2か月後に姉川の合戦に至っていることから、この時期に長政が同盟を破棄、裏切りに出たことは確かでしょう。しかし、信長はその裏切りをある程度あるいは確実に察知しており、実際には金ヶ崎の退き口のような命からがら京へ逃げたなどという醜態はさらしていないと思います。
また考察に加えなければならないのは長政の動員能力です。当時の北近江は石高にして25万石程度でしょうか、多く見積もっても40万石でしょう。1万石で250人の動員が当時の平均と言われていますので、長政は6千人から最大1万人動員できたと思われます。
この裏切りは家中がその方向でまとまったものではないようですから、急襲に参加したのは半分の3千人が精一杯ではないでしょうか。一方、敦賀に陣を引く信長勢は3万人、朝倉勢がある程度反撃に出てきたとしても、数千人を殿軍とすれば充分撤退しながらの戦いに余裕があったという見方もできます。
長政裏切りの真意とは?
このように、金ヶ崎の戦いにおいて、長政は朝倉氏に与することで信長との同盟を破棄してしまいます。長政はなぜ義理の兄である信長を裏切ったのでしょうか?
これまでに述べてきたことを整理すると、以下のような理由が考えられます。
1.祖父亮政の頃より恩義のある朝倉氏へ弓を引くことはできない、という考えから信長との縁切りを選んだ。
2.室町幕府への忠誠心から、義昭をないがしろにしつつあった信長を討ち果たそうと考えた。
筆者は2の立場を取りますが、1の説もある程度の説得性があると言えます。
長政の北近江統治は信長がすでに尾張・美濃で達成していたような独裁政権ではなく、国人領主の集合体による連立政権のリーダーという形だったのでしょう。父久政の隠居に際しても、家臣である国人領主たちが計らって隠居に追い込んだと伝えられています。また信長との同盟でも家臣から反対意見が出たとか、同盟破棄も久政と家臣が強く訴えた、など多くの物事が長政の一存では決められなかったと思われる節があります。祖父亮政時代からの古参家臣などは特に朝倉氏に恩義を感じていたものも多かったのかもしれません。
ただ久政が朝倉氏に恩義を感じる筋合いは全くないのではと思います。久政の時代は六角氏に押され、それに従属することでようやく浅井家の命脈が保たれていました。そのような状態で朝倉氏が背後から攻めこそはしませんでしたが、共同して六角氏に当たろうとの動きは示していません。いわば久政の窮地に手助けすらしなかったと言えるでしょう。また久政のその統治初期には亮政の娘を養女にして斎藤義龍に輿入れさせています。これが近江の方と言って義龍の正室にあたります。しかし斎藤氏は六角氏と手を結び、たびたび小規模ながら戦闘を起こしたり、六角氏と呼応して浅井氏を苦しめたりします。斎藤氏も浅井氏にとっては敵でありそれを倒した信長に感謝こそすれ、弓を引く理由は見当たりません。
このようなことから家臣がかなり強硬に意見ができ、それを長政が取り入れなければ領国経営が成り立たない、という条件がなければ1の理由による同盟破棄は考えにくいのではないでしょうか。
2の説の問題は、元亀元年(1570年)の時点ではまだ信長と義昭の関係が完全に崩壊してないということです。信長からは殿中御掟が突きつけられ、その内容は将軍としての義昭にとっては屈辱的なものです。
例えば「諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事」=諸国の大名に書状を出すときは信長に報告の上、信長の書状を添えて出すこと
あるいは「天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事」=天下のことは信長に任せられたのだから、誰に従うことなく、将軍の命も必要なしに信長の独断で成敗してもよい
などがあり、完全に主客が逆転しています。それでも両者は表面上協力しつつ事にあたっていた時期でもあり、長政が信長の専横ぶりを咎めるにはまだ早いとは感じます。
しかしながら同盟締結の永禄10年(1567年)以来2年数か月、信長と義昭を近くで見ていた長政にとっては、信長の態度の変化を感じうる立場にいたのではないでしょうか。徐々に義昭をないがしろにしつつ、上手く利用すべく立ち回る信長に不信感が芽生えていても不思議ではないように思えます。義昭を奉じての上洛の一翼を担った自負と若武者の正義感・幕府への忠誠心が同盟破棄への動機づけとなったと考えられないだろうか。
そしてこの後は、信長と長政は激しい戦闘を幾度となく繰り返すことになり悲運の最期を迎えることとなります。
悟空さんの中間まとめ
信長と長政の同盟締結そしてその裏切りの周辺にはまだまだ多くの謎が残されています。時代は激動しながら目まぐるしい展開を見せており、特に信長に関しては桶狭間の戦いから上洛、そして朝倉攻めの10年間にとてつもない大きな渦の中で大出世を遂げています。信長の心境も日々刻々と変わっていき、己のとてつもない能力に気づきそれが行動に反映されていったのでしょう。一方の長政はその変化についていけず、旧来の価値観から脱却できなかったのかもしれません。同じ古い価値観の朝倉氏とはそれが共有できたのでしょう。
姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
元亀元年(1570年)4月金ヶ崎での朝倉攻めの際に、長政の手痛い裏切りにあった信長は急ぎ京に戻った後、即座に自らの本拠地である美濃の岐阜へ向かったようです。
一方の朝倉勢と長政は、琵琶湖の東岸を南下し京から岐阜へのルートを抑えにかかりました。さらに南近江では一度は観音寺城の戦いに敗れ甲賀に落ち延びた六角勢が息を吹き返しはじめ、朝倉・浅井連合軍に呼応する動きを見せます。六角氏と言えば長政と度々争い敵同士であったはずですが、まさに「昨日の敵は今日の友」、戦国の世らしい変わり身ですね。このあたりからすでに第一次信長包囲網の萌芽が見てとれます。
このため信長は本来美濃への帰路で取るべき彦根から米原、関が原を抜ける最短ルートを通ることができず、南へ迂回し永源寺あたりから桑名へ抜けるルートで5月下旬、ようやく岐阜へ帰り着きました。すでに南近江に配備されていた柴田勝家や佐久間信盛らが六角氏を蹴散らした後、琵琶湖東岸あたりまで南下していた朝倉・浅井連合軍を避け南へのルートを取ったと言われています。
信長にとって近江を安全に通行して岐阜と京都を行き来できないことは、非常に困ることでした。京には自らが担いだ将軍義昭がおり、摂津や河内といった畿内を完全に掌握しきれていない状況下であり、岐阜と京都を頻繁に往来する必要があったためです。信長は急ぎ軍勢を立て直し、徳川家康とともに近江に出陣しました。
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